先日、一周忌法要に先立ち、古い民家を改造したとある料亭の一室で、故人を偲ぶ会が行われた。
会の冒頭で30分ほどの読経をお願いしたいということで、料亭の一室での初めての法要となった。どのような形式になるのか分からなかったが、御位牌と御遺影を用意して焼香の代わりに合掌低頭でと伝えられていたので、座敷に簡易祭壇を設え、住職の後方に椅子席が並ぶと勝手にイメージ。卒塔婆は、後日自宅での法要で建て、今回は無しということだった。
しかし、当日伺ってみると壁一面のガラス戸に向いて椅子席が並べてあり、住職の席として折り畳みの木の机と椅子が、ガラス戸にぴったりとくっ付けて置いてある。隣の台には、お花で飾られた御遺影が置かれており、どうやらこちらに列席者がお参りする段取りのようだ。
陽当たりの良い私の席の前には、ガラスと外の風景以外何もない。ガラスの向こうは青い空と、緑の芝生と、何故だか男女の胸像が並んでいる。(後から聞いたら、この邸宅の主だった御夫婦らしい。)
施主様に「御位牌はどうされましたか。」と伺うと、「自宅での一周忌もあるし、今日は良いかなと思って。」とのお答え。
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いくら一周忌法要に先立つ「偲ぶ会」の一部とはいえ、法要は法要だ。何にも無い、青空と芝生を眺めながらという訳にもいかないだろう。儀礼儀式の基本として、『十界の大曼荼羅は観心の本尊なり。必定して此の本尊を安立すべし。』(禮誦儀記)とある。心に本尊を念じることでも構わないが、まるで目の前の見ず知らずの胸像を拝んでいるようではないか?!
そんな時、比丘六物(修行僧が持つことを許された生活用具)ではないが、「びくっ!とした時の非常事態セット」を何時も持ち歩いている。携帯用の曼荼羅御本尊やUSBライター、筆ペンもそのラインナップなのだが、これが役に立つ。普段はほとんど日の目を見ないが、ここぞ!の時に役立つのだ。
お陰さまで、この日も清々とした気持ちで勤められた。不謹慎ではあるが、御本尊の向こうに麗らかな日和の風景が広がるのもまた一興だ。何より、外光をふんだんに取り込めるその部屋はとても明るくて、参列者の皆さんのお顔も晴れやかに見える。
涙、涙、涙のあの日から丸1年。また、同じ季節が巡って来た。小練、大練、卒哭と、早過ぎた人の死と向き合い、自分の心の持ち方を再認識しながら、今日、小祥忌(しょうしょうき、しょうじょうき)を迎えるご家族と縁のある方々。
卒哭忌(百ヶ日忌)、小祥忌(一周忌)、大祥忌(三回忌)の三つは儒教の礼法が仏教に取り入れられたものであり、小祥忌は「むかわり」とも呼ばれる。大切な人を亡くして僅か1年で、この「祥」という文字が入ることに違和感を覚えるかもしれないが、産育が生まれて間もない子に「健やかに育つように」と生後の祈願をしたのと同じように、亡くしたばかりの新仏には「安らかな成仏」のため死後の祈願をした。葬送儀礼も、そんな節目節目を作っていった。
そして、今日の節目が、凶服を脱ぎ棄て、これからは感謝と喜びの日々に歩み出そうと誓う決意の日でもあるのだ。