我々僧侶は、どんなに時代が変わろうとも、僧侶としての声を失ってはいけません。
それが突飛もない現実離れしたものだと非難されても、加速する欲望社会に対して、より多くの宗教者の声で歯止めを掛け続けなければなりません。
一方では、真しやかな情報が溢れるがゆえに大変難しいことですが、現代社会における問題や仕組みについて正しい知識を持ち、その時代の布教のあり方を的確に把握することが望まれます。
我が国の経済が今日まで発展を続け、世界各国と積み上げてきた密接な互恵関係や、終戦から70年を迎えても益々激しくなる近隣諸国との軋み等、日本を取り巻く複雑な世界情勢において、国家として国民の生命と財産を守るために、あらゆる事態に対して速やかに対応する機能は必須です。
強力な経済基盤で世界をリードしていた頃とは違い、不当な圧力や謂われの無い歴史問題を振りかざされ続ける日本。それはやはり、大国の台頭と共に、日本国家の弱体化が顕著になった時から始まりました。日本は、中国や韓国に尖閣諸島や竹島を脅かされ、各地で度重なる威嚇を受けています。また中国は、南シナ海においても傍若無人な軍事行動を起こし、他国との小競り合いが発生しています。中東からの原油に頼っている日本は、かつて連合国に海上封鎖されたように、制海権を握られることは経済的な大打撃となります。
同時に、「国際社会の平和」に対して、日本はこれまでとは違った形で貢献する責務があると思います。東南アジア諸国との緊密な連携を図る上でも、武力を振りかざさずとも、鋼の意志で「共闘」することは必要です。戦後70年、国際情勢が時々刻々と変化する今、「前例主義」だけでは国家の安全保障が立ち行かなくなっているのも事実です。
私たち僧侶が進むこの道は、「信じること」が不可欠です。信じることを信じられなければ、先には進めないのです。先ず、信じること。釈迦伝や祖伝に語られる奇跡的な出来事に、「信じない。」と仰る方がいますが、我々にとってそれを信じられなければ、お釈迦さまも宗祖も存在しないのです。例えば、お釈迦さまが願われた“不殺生戒の受持”を実現するために、戦争も暴力も、武器、原発も無くなる日が来ることを、唯々信じて行動します。それを信じて、今できる最善のことを模索します。
そして、それを信じない人、反対する人に対して非難したり敵意を持つことがあってはなりません。相手の立場も理解した上で、自らが信じる道を進む。仮に、自分たちの思うとおりに事が進み、道が開けたとしても、その結果相対してきた人々が苦しむことになるのであれば、我々は立ち止まらなければなりません。そこには、決して優位・劣位が生じてはならないのです。
自然と人類文明との関係と同じように、どちらかの領域を凌駕するのではなく、相反する主張を持つ者たちが平和的に「共生」するということ。その為には、「信を以て、智慧に代える」ことが大切であり、信じなければ智慧も生まれては来ないのです。
国家が共生し、国民が足ることを知って、エネルギー消費が抑えられれば、不毛な利権争いの必要もなくなるでしょう。
真の文明とは何か…その見識が顕かになれば、社会を再生することが出来るはずです。その日が来ることを信じて、声を上げ続けます。