能登日蓮宗の機関紙の夏号が発刊されました。
毎回、檀信徒の方にもご協力を頂き原稿を、お寄せいただきます。今回、七尾市の三原徳太郎さんが「妙成寺と私」と題して書かれたご文章が、大変素晴らしいのでここに記します。
三原徳太郎
妙成寺の五重塔まつりでは、大勢の女性たちが高題目を唱えるなか、奴行列が黒門から出発する。その高題目の声がなぜか懐かしく私を引き付ける。母の胎内にいる時に聞いた声か、それとも幼いころ聞いた声か。
昭和二十六年、私が六歳の時に母は亡くなった。それから毎年七月の妙成寺寄合会(きごうえ)になると、父が朝早くからにぎり飯をつくり、それを囲炉裏の火で焼いて竹の皮に包み風呂敷で背負って、志賀町二所宮から二里の道を妙成寺へと歩いた。
途中、岩田のお社で冷たい湧水を飲み、畑の続く高台の道を歩くと妙成寺の五重塔が少しずつ見えてくる。「あの五重塔の下で母ちゃんがまっとるぞ」と、父に言われると私たち幼い兄弟三人ともそう思えた。
五重塔と釈迦堂との間に大きなタブの木があり、その下に土盛りがあって父の両親の墓があった。その土盛りに母のお骨も瓶に入れられていた。「おまんちゃがデカくなったら母ちゃんの墓を造ってくれな」と父は言った。当時の寄合会には沢山の人がお参りしていた。
それから月日が経ち、兄が五重塔の近くに墓を建てた。今は、その墓に父と兄も入っている。昔のことを思い出しながら妻と二人で手を合わせた。
その後、五重塔内を特別に拝観した。子供のころ五重塔の上まで登ったことがあり懐かしい。まるで仏さまの胎内にいるようでそんな匂いがした。
妙成寺の五重塔には、さまざまな思い出がある。塔内に納められている仏さまに静かに手を合わせた。五重塔まつりは、うちわ太鼓と高題目がお山全体を包み込むようで、法華経の心にふれた充実した一日でありました。 母の日に記す 合掌