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七面山 妙恵寺

【Shichimenzan Myokeiji】

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法話ブログ「前に進む勇気」@1月21日御題目講

こんにちは、副住職です。
少し期間が開いてしまいましたが、法話ブログが整いましたのでアップいたします。
今回は、先日、1月21日に行いました妙恵寺御題目講の際の住職の法話をまとめましたので、是非ご覧くださいませ。

今月の聖語:「道の遠きに志のあらわるるにや」(『乙御前母御書』昭和定本755頁)

 

新年、明けましておめでとうございます。
もう1月も後半になりましたけれど、お正月を迎えて、皆さんお互いに「おめでとうございます」と言いますが、どうしてそういう挨拶をするのか、その理由を説明できますかと若い学生に聞きますと、みんなキョトンとします。
最近では年末になるとテレビ番組でいろいろと説明していますから、大掃除をしたり、お飾りや鏡餅等をお供えするのはどういう意味があるのか、皆さんはご存じですね。
いわゆる歳神(としがみ)様をお迎えするために、その準備をするわけですね。日本人の伝統文化として、新年を迎えて心を新たにするという、そうした気持ちを形に表すのが、歳神様をお迎えするという儀式なのでしょう。
その歳神様を迎えることができれば、みんな一歳ずつ年をとることになります。年配の方はご存知でしょうが、日本人の年齢は、もともと数え年でした。数え年では生まれた年、おぎゃぁと生まれた年が1歳ですから、次のお正月の元旦を迎えると2歳になります。極端に言うと大晦日に生まれたら次の日には2歳になってしまうわけですね。
現代では満年齢で数えますので、個人の誕生日をお祝いしますが、これは西洋の風習ではないかと思います。日本では古来から、みんなお正月を迎えると一歳ずつ年をとるので、お互いに「おめでとう」と挨拶を交わす風習になったのだろうと思います。
おそらく日本人は、個人の誕生日という意識は薄かったのではないでしょうか。戦前の時代には、出生届を出すのも、かなり遅れている人がいたようですし、実際の誕生日と戸籍上の生年月日にズレがある人も多かったようです。
もっと昔の時代には、よほどの有名人でない限り、実際の誕生日を割り出すのは、かなり難しいようです。
実は日蓮聖人の誕生日も、2月16日と伝えられていますけれど、ご自身でそうおっしゃっているわけではありません。2月16日御降誕というのは、後世の伝記に出てくるのです。
2月15日がお釈迦様の入滅(涅槃)された日なので、その翌日にお釈迦様の精神を弘めるためにお生まれになったのが日蓮聖人だということで、2月16日御降誕とする伝承が生まれたのではないかという説もあります。
日蓮宗では、奇しくもお釈迦様のご入滅の翌日に、お釈迦様の再来として、日蓮聖人がお生まれになったのだと説明されています。これは偶然なのか、必然なのか、信仰的に受けとめるしかありません。

 

さて改めまして、今月の聖語は『乙御前母御書』というご遺文の一節でございます。乙御前の母に宛てられたお手紙で、もともと手紙ですから、題は後から付けられたものです。
主人公は「日妙尼」という女性の信徒で、ご主人とは離別したようで、生別か死別は分かりませんけれど、「乙御前」という一人の女の子がいらして、今でいうシングルマザーですね。この方は鎌倉にお住まいで、ある程度社会的な地位の高かった女性だったと考えられます。
日蓮聖人のことをさまざまな面で支えた方がいらっしゃったわけですが、例えば経済的に支援された方としては富木常忍さんや大田乗明さんだったり、池上兄弟であったり、四条金吾さんとか、そういう武士階層や知識人がおられましたし、女性信徒も大勢いらっしゃったのです。
おそらく「日妙尼」は一介の女性というよりも、武士や御家人の奥様や娘さんのように、いわゆる下人(げにん)をもつような方で、詳しくは分かりませんが、それなりの財力もあったのではないかと考えられます。
なぜならこのお手紙の端書きには、日蓮聖人の佐渡流罪中に、日妙尼が鎌倉のお弟子たちを外護していたことに触れられており、感謝の意が示されているからであります。
日蓮聖人が文永8年9月12日に、龍ノ口で首を切られそうになった時、不思議な出来事があって、「光りもの」といわれる、雷のようなものが落ちたのではないかと考えられております。もともと正式には佐渡に流されることが決まっていたのですが、夜陰にまぎれて殺してしまえという人がいたのです。まさしく虎口を脱して佐渡に流罪されたのが文永8年の冬のことです。
佐渡に流された日蓮聖人は、当初は塚原という死体置き場のような所が配所となり、そこに建てられていた「三昧堂」において、『開目抄』という非常に長文の著述をなさいます。『開目抄』には、なぜ日蓮聖人は法華経のために自ら命を捧げる覚悟をもたれたのか、法難・迫害を受けなければならない理由についてきちんと説明されております。
流罪地佐渡の極限状態の中で、「かたみ」として遺言を残すという意味で文永9年2月に書き終えられた御遺文が『開目抄』なのです。
その後、文永9年の春には、塚原より少し環境の良い一谷(いちのさわ)という場所に移されます。その年の5月にこの日妙尼さんが、はるばる鎌倉から佐渡の日蓮聖人を訪ねてきたのです。それも女の子を連れて来られたということなんですね。
日蓮聖人が佐渡に流された時の行程が『寺泊御書』という御遺文に記録されておりまして、ほぼそのルートがわかります。相模国の依智(現在の神奈川県厚木市)を発って、一週間の旅程で越後の寺泊に到着されます。寺泊から舟で佐渡に渡るわけですが、天候が悪いために一週間ほど足止めとなり、一旦は舟が出ますが越後の角田浜に戻されたりして、すぐには佐渡に着けません。今の暦に直せば12月のことですから、冬の日本海の荒海を越えて、ようやく佐渡の松ヶ崎に着船したのです。
そのように、最低でも10日はかかる行程を女性の身で、しかも子どもを連れて、佐渡の日蓮聖人を慕って訪ねて来られたのです。日蓮聖人はその志の深さを賞賛して、この女性に「日妙聖人」という法号をお授けになられています(『日妙聖人御書』昭和定本647頁)。
「聖人」というのは、よほどの修行者か出家者でなければ付けられない法号なのですが、この「日妙聖人」と名付けられた方が、乙御前のお母様であるわけです。

 

この『乙御前母御書』というお手紙には、仏法を求めるために、はるかに遠い道のりを越えていった事例がいくつか挙げられます。
例えばお釈迦様のお弟子の一人であった目連尊者について、いつも施餓鬼会の時にお話ししますが、神通第一といわれる目連尊者が、亡き母の後生が心配で、神通力によって世界中を探したところ、餓鬼道に堕ちて苦しんでいるお母様を見つけてしまい、自分一人ではどうすることもできないので、お釈迦様に教えを乞うてお母様を救ったというお話がありますね。
その目連尊者は、どうして神通力を修得して遠い所まで布教することができるようになったのか、その理由は、過去世において千里の道を渡って仏の説法を求め、その教えを所望するために遠い道のりを厭わずに通ったという、そうした功徳によって今の神通力を体得することができたのであり、さらにもっと世界中の人々に教えを弘めるための役回りをするのだと、そうした過去世からの因縁が説かれるのです。
他の事例として、中国の隋の時代に天台大師という方が、お釈迦様が説き残された教えの中で、最も大事な集大成の教えが説かれているのは法華経であることを理論的に証明されました。その天台大師の徳を慕って、章安大師という方が万里の道を歩いて天台山まで足を運んで弟子となり、法華経の真髄に触れることができました。
また、日本では伝教大師最澄という日本天台宗の比叡山を開いた方は、三千里の波涛を越えて当時の唐に渡り、天台大師が体得した法華経の教理と実践方法を日本に伝えたのです。
ちなみにこの伝教大師最澄は、実は弘法大師空海と同じ時に遣唐使船で旅立ちました。船は4艘で出港しましたが2艘が難破してしまい、伝教大師と弘法大師の乗った2艘だけが中国に着いたというエピソードが伝わっております。そうした艱難辛苦に耐えて、仏教の中でも様々な経典がありますが、いったい本当のお釈迦様の御心はどの教えなのかということを、まさに命がけで求めた、そのお一人が伝教大師最澄なのであります。
さらには、玄奘三蔵という方は、『西遊記』の孫悟空の話で有名になった三蔵法師のことですが、中国の唐の時代に、今でいうタクラマカン砂漠のある新疆ウイグル自治区からヒマラヤを越えてインドへ旅して仏法を求め、霊鷲山にほど近いところのナーランダで仏教の奥義を学びました。当時の国の掟では外国へ行くことは許されなかったのですが、それを破ってまでも、二十万里の道のりを越えて、まさに命がけで仏法を求めたのが玄奘三蔵なのです。
このように、遠い道のりを越えて仏法を求めたという事例が列挙されているのです。

現代の私どもは、さまざまな乗り物が利用できるので、旅をするのは楽しみですが、昔は全く違います。旅立ちの時には水杯(みずさかづき)を交わす風習があったように、遠路を旅することは命がけだったわけであります。
山には山賊が出たでしょうし、海には海賊がいたかもしれません。鎌倉から佐渡までの道のりを、おそらく女性二人だけではなかったと思います。誰かしらボディーガードのような人が付いていなければ無理だったと思いますが、いずれにせよ、相当に強い志をもっていなければ佐渡まで行くことはできなかったはずです。
それをはるばると訪ねて来られた乙御前の母(日妙聖人)の志のほどは、道のりの遠いことに比例して推し量られるということ、そのことを日蓮聖人は「道の遠きに志のあらわるるにや」と表現されたわけであります。
いつもお話ししますように、法華経の信仰というのは、ただ頭の中で理論的に考えるだけでは、なかなかその真髄に迫ることは難しいと思われます。
母と娘が遠路を越えて佐渡まで来られたこと、そこに志の高さがあり、覚悟のほどがよく表れていると、日蓮聖人は賞賛されています。
仏教の中でも、特に法華経の教えというのは、具体的に実践してみなければ、その深さを知ることができないのです。日蓮聖人ご自身、法華経の教えこそが仏教の中で最第一であるという確信を得られるためには、自ら実践を積み重ね、ある意味で自分が実験台となりながら、度重なる法難・迫害を体験することが必要だったのです。
人生には困難な道のりが付きものですが、それを自らに与えられた試練として受けとめて、まっすぐに進んでいく勇気と覚悟が問われているのではないでしょうか。
私どもは、何か壁にぶち当たるとすぐに諦めたり、前に進むのを躊躇してしまいますけれど、そこで逃げずに、チャレンジすることが大事なのだと思います。課題を乗り越えるためには自分一人の力では無理かもしれません。しかし、他人の協力や、目に見えない力に支えられて一歩ずつ進んでいくこと、貫いていくこと、それが生き方や信仰において、またどの道においても共通して大事なことではないかと思います。
そのためには最初の覚悟が大切であって、「初心忘るべからず」とか「初志貫徹」といわれますように、いつでも自分自身の原点を確認しながら、自己の役割や責任に目覚めて、それに徹していくことが必要なのでありましょう。
お正月ですので、皆さまも改めてそうした「志」をご自分自身で確認していただくことをお勧めいたします。「一年の計は元旦にあり」という諺もあるように、皆さんそれぞれが今年一年の間はこれをやり抜くんだという覚悟を決めていただきますように。それはたとえば、毎月欠かさずにお寺に参りに来ようという決意でもよろしいかと思います。
どうぞ皆さま、何かをやり抜くという志を立てて、それを実践しようとする思いを新たにしていただければ幸いに存じます。
南無妙法蓮華経

以上が住職の法話でございました。
次回の御題目講は、3月19日14時から妙恵寺本堂にて奉行いたします。
御題目講、御祈祷、住職の法話の他にも、春のお彼岸法要も合わせて行います。
ご先祖様あってこそ、今の自分がある。
お彼岸という今だからこそ、共にお題目をお唱えし、ご先祖様に供養の誠を捧げましょう。
どなた様でも参加いただけます。
ご参加ご希望の方は、メールやお電話でお気軽にお問い合わせください。
皆様のお越しを心よりお待ちしております。
合掌
裕真。

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