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七面山 妙恵寺

【Shichimenzan Myokeiji】

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9月19日、御題目講「罪を罪として認めないことが最大の罪」

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こんにちは、副住職です。
去る9月19日に、当山に奉安しております七面大明神様の大祭とお彼岸の法要を合わせて奉行いたしました。
今回は、当ホームページをご覧になって初めてお越しの方が2組もいらっしゃいまして、大変有難いご縁だなと実感いたしました。
さて、今回も住職の法話をまとめましたので、是非ご覧ください。


 

光日房御書拝読
「それ針は水にしずむ。雨は空にとどまらず。蟻子を殺せる者は地獄に入り、死にかばね(屍)を切る者は悪道をまぬがれず。何に況や、人身をうけたる者をころせる人をや。但し大石も海にうかぶ、船の力なり。大火もきゆる事、水の用(はたらき)にあらずや。小罪なれども、懺悔せざれば悪道をまぬかれず。大逆なれども、懺悔すれば罪きへぬ。」(昭和定本1158~9頁)

 
本日はようこそお参りいただきまして有難うございます。9月19日は七面大明神の大祭でございます。そして明日がお彼岸の入りですので、お彼岸の御回向も皆様と共に営んだわけでございます。
今回は初めてお参りいただいた方もおられます。これも七面様のお導きだと思います。特にお若い方がこうしてお参りに来られたのは、七面様のご威徳がまさに現れているのではないかと、お経をあげながら感じた次第であります。


さて、当山の七面大明神のご尊像は、実に不思議なご縁によってこちらに安置したということにつきまして、昨年の9月に詳しくお話しいたしました。
初めての方がおられますので、かいつまんで申し上げますと、昭和20年5月29日の横浜大空襲で亡くなられた及川錬勝上人の50回忌を平成6年5月の御題目講で営みました。
先代の原錬惠(光澄院日幹)上人にとって、師匠の及川上人に対する報恩の念は非常に厚いものがありまして、大病を克服できたのも、亡き師匠がお守りいただいたおかげだという思いがあったのだろうと、私は感じておりました。
その50回忌を勤め終えた3か月後に、実はある古物商から、七面様の立派な御尊像があるのですが、受けてくれませんかという話が舞い込みました。受けるといっても、もちろんタダではないのですから、数百万円もするので、しばらく躊躇しました。
しかしながら、戦災で焼けてしまった七面教会の七面大明神様によく似ていて、とても柔和なご表情で、彩色も鮮やかなので、これだけ立派な御尊像は他にはないだろうと直感しまして、先代の日幹上人はお受けすることを決断したわけです。
師匠の50回忌が終わって3か月後にこうした話が舞い込んでくるという不思議さ・・・。こうして平成6年10月19日、新たにこの七面様の御尊像お迎えをした次第でございました。
さらにそれから1年半後の平成8年4月に、今度は現在のこのお堂の土地の話がまさしく舞い込んできたのです。このお堂を建てるにあたって、先代は私財をすべてなげうち、檀信徒の皆様から浄財をいただきまして、平成9年10月に今のお堂が建ち、七面山妙恵寺が開創された次第でございます。
他にもいろいろと不思議なことがありまして、七面様のご威徳といいますか、霊験というべきことを、現象として目の当たりに見せられたと感じております。

 
次に9月19日がなぜ七面様の大祭とされるのか、その縁起をお話しします。
日蓮聖人が身延に入られまして、天気の良い日にはご草庵近くの大きな岩の上でお説法をなさったと伝えられております。現在、身延の西谷に妙石坊というお寺がありますが、そちらでちょうど法華経提婆達多品のお説法をなさっていた時、普段は見かけない妙齢なご婦人がお説法を聞きにきていました。
今日も赤ちゃんを連れたご婦人と、お若い男性が初めてお参りいただいておりますが、常連の方にとっては興味津々なわけですね。
そこで日蓮聖人は、皆が訝しく思っているので、そなたの正体を明かしてあげなさいと言われます。
するとそのご婦人はお水を少々いただきたいと言い、日蓮聖人が花瓶の水を注がれますと、みるみる巨大な龍に変身しました。みんながびっくり仰天していると、再び人間の姿に戻ってその由縁を明かされます。
私はこの身延山の裏手にあります七面山に住む龍神でございます。法華経の教えを命がけでお弘めになる方をお守りしたいという念願をずっともっておりまして、それを実現するためにこちらに参った次第でございますと、いきさつを話されたのです。
その念願というのが、先ほど法要の中で拝読した提婆達多品の後半の部分ですね。「深く罪福の相を達して」から始まるお経文で、8歳の龍女が登場します。
その龍女は龍神の娘とされますが、当時のインドでは、女性は仏になれないという差別がありました。そうした差別を乗り越えた考え方を、お釈迦様は法華経においてきちんとお示しになられたのです。
そうした当時の常識を覆すような内容が法華経では説かれます。この龍女は、みんなの目の前で、その身を瞬間的に変じて男の姿になり、仏の三十二相という形を整えて、仏の姿を成じて見せたのです。
そしてこの龍女は、自分は法華経の教えによって成仏できましたから、女性の成仏の道を開いていただいた法華経の教えを大事にお守りしたい。特にその教えを実践する方をお守りしたい、そういう決意、覚悟を表明されたのです。
それが「我、大乗の教を闡(ひら)いて、苦の衆生を度脱せん」という誓いの言葉です。こちらの御宝前の左右にあります柱聯(ちゅうれん)に書かれているのは、龍女の誓願なのです。このことから七面大明神の本地は、吉祥天とも弁財天と言われることもありますが、私ども日蓮宗では提婆達多品に登場した8歳の龍女こそが七面大明神の本地であるという信仰に立っているわけでございます。
そして日蓮聖人の入滅後、お弟子の日朗上人と、身延の地を寄進された波木井実長公が、七面山に登られて、7つの池の近くで、確かにここには龍神がお住まいであるという霊気を感じて、七面大明神をお祀りしました。その日が永仁5年(1279)9月19日とされておりまして、このことから9月19日に七面大明神の大祭を行うようになったわけでごさいます。
こうした七面大明神の由来につきましては、昨年の9月にもっと詳しく述べました。
その内容は以下のページに掲載してありますので、是非そちらをお読みいただきたいと存じます。

https://temple.nichiren.or.jp/0051077-myokeiji/2016/10/id279/

 
さて、今月の御妙判は『光日房御書』というご遺文です。光日房とは女性の信徒で、日蓮聖人の故郷であります安房の小湊、その西隣が天津(あまつ)という地域ですが、この天津にお住まいなっていた信徒に与えられた長文のお手紙の一節です。
この方は、武士であった夫が亡くなり、息子の弥四郎という方も武士でした。武士は殺生を生業とするわけですから、自分がいつ殺されるかわからない、また逆にいつ人を殺めてしまうかわかりません。そこで息子の弥四郎さんは日蓮聖人にご相談というか、ご自分の悩みを告白して、指導を仰いだことがありました。そして自分もいつ命を失うか分らず、老いた母を残していかなければならないかもしれないので、万一の場合には是非とも母をお導きいただきたいという願いをもたれていたようです。
このお手紙は建治2年3月に書かれたとても長い文章なのですが、前半部分は日蓮聖人が佐渡へ流されて、2年半後に赦免されるまでの状況と、鎌倉に帰って身延に入られた時の心境が詳しく記されています。
そしてお手紙の後半に、冒頭に拝読しました一節が出てくるのですが、お手紙の雰囲気を伝えるために、その前の文脈の内容から、現代語訳(春秋社『日蓮聖人全集』第5巻参照)を交えて紹介したいと存じます。
 
たとえ親しみのない人でも故郷の人といえば非常になつかしく思われますのに、まして親しい尼御前からの手紙を頂戴し、心もはやって早速拝見しましたところ、一昨年(文永11年)の6月8日に御子息の弥四郎殿がなくなられたとのこと。お手紙を見るまでは嬉しく思っていましたが、いまこのお手紙を読み、どうしてこんなに急いでお手紙を披(ひら)いたかと、浦島太郎の玉手箱のように開けたことを悔いています。
故郷の安房の国のことは、日蓮につらくあたった人のことでもなつかしく思っておりますし、とりわけ弥四郎殿は容貌も人並み以上に勝れ、温和な人柄とお見受けしました。いつぞやお会いしたのは法華経講説の席で、知らない人びとも多勢いましたので言葉もかけませんでした。
講説も終わり人びとも弥四郎殿も帰られましたが、やがて使いをよこし、自分は安房の国天津に居住する者ですが、幼少のときからあなた(日蓮聖人)の御志を御慕いし、私の母もまたあなたのことをおろそかには申していませんでした。馴れ馴れしい申し分ではありますが、内密に申し上げたいことがございます。本来ならばお伺いいたし、御懇意をいただいてから申し上げるべきですが、武士に仕える身分にて暇もなく、それに急ぎ申し上げねばならない事情もありますので、失礼をかえりみず申し上げます、と懇切に面会を求めてこられました。
故郷の人でもあり、別に憚る事もありませんので招いたところ、こまごまと今までのことや行末のことなどを話してから、無常は世の習いであればいつ命を失うかわかりません。その上、自分は武士となった身であり、また近いうちに刀を用いなければなりません。それにつけても後生が恐ろしく思われてなりませんので、どうか助けていただきたいといわれましたので、経文を引用して申し聞かせました。
また弥四郎殿が歎いていうには、父はすでになくなりましたが寡婦の母がいます。この母より先に死ぬことは、この上ない不孝だと考えています。もし私が死ぬようなことがあれば、是非母をお弟子にしていただきたいとねんごろに依頼されました。その時は何事もなく済んだようでしたが、その後また死なねばならない事件が起こったのでしょうか。
人間として生を受けた以上、身分の上下にかかわらず憂いのない人はありませんが、時により人によってその歎きはさまざまです。たとえば病の常としてどのような病でも重くなれば、これ以上のつらい病はないと思うようなものです。これと同じように主従の別れ、親子の別れ、夫婦の別れもいずれ劣らぬ歎きではありますが、たとえ主君は失ってもまた他の主君に仕えることもできます。夫婦もまたたとえ別れても、代わりを迎えれば心を休めることもできましょう。
しかしながら親子の別ればかりは、月日もたてばたつほどその歎きはいよいよ深くなるばかりです。親子の別れでも親が先になくなり子供が残ることは、同じ無常ではありますが自然の道理ですからやむをえません。しかし、老いたる母が生き残って、若い子供が先立つのはあまりにも哀れで神や仏がうらめしく思われます。どうして親を、子供の代わりに死なせないで生き残らせ、このように歎かせるのであろうかと悲しくてなりません。思慮分別のない畜生でも子との別れは堪えがたいものです。(中略)
これらのことどもを思うにつけ、尼御前もわが子の姿を見るためには、たとえ火に入っても頭を砕いても惜しくはないと考えるその胸中が思いやられて涙も止まりません。
またお手紙に、弥四郎はかつて人を殺害した者であるから、後生はどのような所へ生まれてくるのか御教示いただきたいとのことですが、針が水の中に沈み、雨が空中にとどまらないように、蟻を殺した者も地獄に堕ち、死んだ屍体を切った者も地獄・餓鬼・畜生の三悪道へ堕ちることから免れることはできません。まして、人間を殺したとすればなおさらのことです。しかし、大石も船の力を借りて海に浮かぶことができ、大火も水の働きによって消すことがきるように、小さな罪でも悔い改めなければ必ず悪道に堕ちますが、大きな罪を犯した人でも悔い改めればその罪は消えます。

 
この最後の一節が、冒頭で拝読した部分に当たります。
針は水に沈みます。すなわち小さなものであっても、針は水より比重が重いので沈むのが道理です。また雨は空中で止まりません。雲の状態では空中に止まっていますが、許容範囲を越えれば雨として落ちてきます。たとえ蟻一匹を殺しただけでも、殺生にあたるので地獄に堕ちることもあります。また、“死に屍(かばね)を切る“というのは、現代流にいえば死体損壊罪のような行為でしょうか、それによって地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちることから免れません。ましてや、人間を殺したとすればなおさらのことです。
しかしながら、大きな石も船に乗せれば船の力によって海に浮かぶ事もできます。石そのものでは沈んでしまいますが、船に乗せるというのが一つのポイントですね。また、大きな火事であっても水によって消すことが出来るように、小さな罪でも悔い改めなければ必ず悪道に落ちますが、大きな罪を犯した人であっても、きちんと悔い改めることによってその罪を消すことができるのですよと、さらにそうした事例は沢山あることが説かれます。
 
懺悔という言葉は、仏教では「さんげ」と読みます。キリスト教でも懺悔(ざんげ)とか、告解といって、自分の犯した罪を告白して自己反省をすることが重視されます。
自分が犯してしまったことは取り返しがつかないですね。時間は元には戻せませんから。しかし、あやまちを犯してしまったことを自分自身がきちんと反省して、何故そのあやまちを犯したのかをよく考えること、そして二度とあやまちを犯さないように誓うこと、それが懺悔ということでしょうね。
自分の行いでも、善いことはいつまでも覚えていて、人に自慢したくなりますが、反対に悪いことをしてしまった場合は、できるだけ隠しますよね。人には口が裂けても言えないようなことも、あるかもしれませんね。
キリスト教にしても、仏教にしても、宗教において大事なことは自分自身を見つめること、自己を顧みること、自己反省すること、それが一番大事だとされます。私たちは人間ですから失敗をしますし、あやまちも犯します。しかしながらそこから何を学ぶのか。自分が失敗したり、あやまちを犯した場合、自分自身がそれをどのように受け止めて、どう改善していくかがポイントになるはずです。
 
こんな例は挙げたくなかったですが、ちょうど昨日、記者会見をした豊田真由子様。秘書への暴言と暴力の問題が週刊誌にスクープされてから、テレビのワイドショーで一躍有名になってしまいましたね。一時間半にわたる記者会見があったそうで、私はよく見ていないのですが、今朝のワイドショーによりますと、謝罪会見というより、自己弁護に終始してしまったようです。記者の質問の揚げ足を取ったり、高飛車に反論したりして、余計に反感を買ってしまったらしいですね。謝り方が中途半端だと言ったコメンテーターもいましたが、深く反省する姿勢を示すことなく、自分のために涙を流して自己を正当化する。先月のお話でも触れましたが、頭の良い人というのは、プライドが強くて人を見下すようなところがありますからね。それでは世間様からのお許しは得られないのだろうと思います。
 
人間は誰もが罪を犯してしまうことがあります。
私の好きな作家の一人、三浦綾子さんはキリスト教の信徒で、結核や脊椎カリエスという病気で大変なご苦労をなさった方です。50年ほど前の朝日新聞の一千万円懸賞小説で『氷点』が入選し、大ベストセラーとなって映画にもなりました。
『氷点』では、妻が他の男と密会中に娘を殺され、夫は復讐の意味から殺人犯の娘を養女として妻に育てさせるという設定で、次第にその事実が暴露されることとなり、前向きに生きようとする娘の心が凍った瞬間が「氷点」という表題になっています。そしてこの小説は、人間が生まれながらにもっている「原罪」をテーマにしているとされるのです。
懸賞小説に入選した時の記者会見で、「原罪とはどういうことですか?」という質問に対して、三浦さんは、「的を外して生きることです」と答えたそうです。的外れの罪。キリスト教の立場では、神の意志に背いて自己中心的な生き方をすることが原罪とされるわけです。
私たち人間は、どうしても自分本位な考え方に陥ってしまいがちですね。自分の欲望や願望が先に立ってしまって、自分の思い通りにしようとする。しかし人生というのは、思い通りにならないことや、失敗したり挫折することのほうが多いものです。
仏教では、思い通りにならないことを思い通りにしようとするところに「苦」が生じると説きます。だからといって最初から諦めなさいというわけではなくて、自分の願望を叶えるために努力することは尊いことです。問題は、その願望があまりにも自分本位になっていないかということです。その部分に関して、自己反省や、軌道修正することが常に求められているわけです。
大いなるいのちの営みの中で、私たちは目に見えない力によって生かされていることを感じながら、自分の役割や使命に気づき、目ざめ、実践することが求められているのです。大自然の摂理や社会の営みの中で、私たちはそれぞれみんなが大事な役割を持っているはずです。
そうした感性を研ぎ澄ませながら、さまざまな経験を積むことが、魂の修行につながるのではないでしょうか。

 
先月お話ししましたように、理解力や頭の良さがあっても、信心が欠落していると「有解無信」になって、悪道に堕ちる場合があるというのは、自己中心的な生き方になっているからです。「信」が欠落した状態が「罪」ともいえると思います。
この場合の「信」とは、自己を超えた大いなるものに対して素直になる真心のことです。キリスト教では神の意志、仏教では仏の御心に対して謙虚になることでありましょう。
日蓮聖人は法華経を「鏡」とされ、久遠の生命をもって私たちを導き続けておられる本仏の大慈悲心に随順する生き方を貫くことによって、「南無妙法蓮華経」による絶対の救いの世界を感得されました。「南無妙法蓮華経」とは、永遠の魂のネットワークと言えるかもしれません。
御題目を唱えるということは、私たちが「的外れ」な生き方に陥りがちであることを常に反省し、懺悔を繰り返しながら、本仏の大慈悲心に支えられて永遠の魂の修行をさせていただくことであるはずです。
三浦綾子さんは、さらに「罪を罪として認めないことが最大の罪である」ともおっしゃっています。これはとても深いと思います。
一口に「罪」といっても、法律的な罪、道徳的な罪、宗教的な罪があります。法律に違反すれば刑罰を受けなければなりません。道徳的な罪というのは、直ちに罰せられることはありませんが、他人に迷惑をかけたり不快な思いをさせたりすることで、自分では気づかない場合もありますね。これらに比べて宗教的な罪というのは、とても深い次元なので、実感しがたくて、自己反省することも困難です。
日蓮聖人が「大逆なれども、懺悔すれば罪きへぬ」とおっしゃったのは、法華経の教えに背いたり、仏の御心をないがしろにするような、宗教的次元の罪をさしているものと考えられます。
 
私たちは日常生活において、さまざまな罪を犯しながら生きているわけです。自己中心的な生き方も罪であるとすれば、自分で気づかない罪をいつも懺悔しなければならないのかもしれません。
だからこそ私たちは、御題目をお唱えするによって、そうした潜在的な罪も反省するチャンスが与えられ、自分の至らないところに気づかせてもらって魂を成長させることができたり、信仰に生きる悦びを感じさせていただくこともあるのだろうと思うわけであります。
毎月同じようなことばかり申し上げているようでありますが、人それぞれ境遇が違いますし、状況は刻々変化していきますので、受け止め方も異なってくるのではないかと存じます。毎月お参りいただいている方も、初めてお参りの方も、是非とも来月もまたお参りくださいますようお願いいたします。

以上が住職の法話でした。
冒頭にも書きましたが、今回は七面大明神様の大祭ということで、初めてのお越しの方が2組もいらっしゃいまして、七面大明神様の深いご縁を感じる次第でございました。
是非、ホームページをご覧になって、参加してみたいと思われた方は、お気軽にメールやお電話等でお問い合わせください。
法話を聞きたい、御祈祷を受けたい、お経を読んでみたい、などなどきっかけはなんでも結構です。

次回は、10月19日(木)午後2時~ 妙恵寺本堂にて御会式法要を行います。
御会式法要、皆様の家内安全身体健全をお祈りする御祈祷、住職からの法話など内容盛りだくさんでお送りいたします。
皆様のお越しを心よりお待ちしております。


合掌
裕真。

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