8月19日、妙恵寺開山日幹上人第十七回忌「住職が語る日幹上人激動のご生涯」

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こんにちは、副住職です。
先週の8月19日に、毎月の御題目講に合わせまして、先代住職、妙恵寺開山光澄院日幹上人の第十七回忌法要をお檀家さんと共に厳修致しました。
その際の住職からの法話として、日幹上人の生きざまについてお話がございましたので、以下にまとめさせていただきます。
激動の時代を生き抜き、妙恵寺を建立された日幹上人のご生涯、是非ご覧くださいませ。
 

先代、原錬恵、光澄院日幹上人は、大正8年1月25日生まれでございました。
今、もし健在であれば満97歳であります。
昭和初期の日中戦争から太平洋戦争、そして戦後の一番厳しい時代を生き抜いた一人であります。
私(現住職)にとって、師匠であり、父であるため、師父という呼び方をします。
師父は、生後まもない頃に父親を亡くし、上野の不忍池の近くで母と祖母と三人で暮らしていました。
3歳の時に関東大震災に遭い、火災によって住む家を失った3人は、母の知人宅に一時身を寄せ、住居を転々としているうちに、母親も28歳という若さで亡くなり、祖母と2人で川崎の大叔母(祖母の姉)と曾祖母の所へ移ります。
川崎尋常小学校に入学し、2年生の時には秩父に移り、3年生のはじめに祖母も亡くなったため、再び川崎に引き取られ、小学校卒業まで大叔母と曾祖母との3人で生活を送りました。
 
この大叔母がたまたま日蓮宗の信者で、横浜から棚経に来ていたお上人から、「この子は不遇だから、仏門に入れたらどうか」との誘いをいただき、13歳で横浜の二葉町で七面教会の担任をしていた及川錬勝上人のもとで出家をします。
2年間、僧侶としての基礎の教育を受け、15歳の春に東京池上本門寺の宗学林に入り、4年間の修学を終えて谷中の瑞輪寺に移り、立正大学専門部宗教科に通います。
 
時あたかも日中戦争が勃発し、大学2年次が終わった昭和15年に召集令状を受け、衛生兵として東京第三陸軍病院に応召となり、3年間軍備に服します。
昭和18年に召集解除となり、直ちに大学の3年次に入りますが、軍事体制の強化により、9月に卒業となりました。
翌10月には再び招集を受け、東京世田谷の第二陸軍病院に入隊、編成され、品川駅から軍用列車で大阪へ送られ、10月26日に難波港より「赤城山丸」に乗船し、船は南下します。
 
船中、南方へ行くと聞かされていたものの、軍の秘密で目的地は明かされず、途中台湾の高雄、フィリピンのマニラ等に寄港し、食料や兵器を積み込んで、ジグザグに航路をとりながらさらに南下し、1か月後の11月26日、モロッカ諸島ハルマヘラ島のワシレ湾スバイムに上陸。
そこは一帯がジャングルで、原住民の住居が10棟ほどあるだけだったそうです。
 
島に到着して最初の仕事は病院を建設することで、スバイムから5,6キロほどの奥地に綺麗な川を発見し、そこまでの道を作り、ジャングルの竹、椰子、つるなどを利用して兵站(へいたん)病院を建設します。
周辺の部隊からの患者はほとんどが風土病で、マラリア、アメーバ赤痢、しょう紅熱、急性大腸炎などの患者の診療業務に1年間携わります。
昭和19年の終わりに初めて空襲を受け、その当時、オーストラリア軍がワシレ湾の入口のモロタイ島を占拠していて、連日のようにハルマヘラ本島にいる日本軍各部隊を爆撃し、病院もその戦禍を被り、数人の犠牲者が出たそうです。
次第に食糧も底をつき、畑を開墾してタピオカという現地の芋を作り、海では魚を釣り、川ではウナギやエビを捕り、陸では狩猟の得意な人が野生の鹿、豚、鶏、犬を捕り、ニシキヘビやオオトカゲなども食料にし、椰子から糖分と油を採り、夜はその油で灯りをともしたそうです。
 
ある時、班の中で暴力事件が起きて、容疑者を軍法会議にかけるため、フィリピンのマニラまで護送しなければならず、班長であった師父がその任務を命令されます。
ところが、当日になって別の事件が起きたために、急遽副班長が代行することになり、マニラまで護送した帰りの船が爆撃に遭い、若い副班長が犠牲になったという痛ましい事件もあったそうです。
 
師父はもちろん僧侶ですから、爆撃や病気で命を落とした戦友たちを葬ったわけです。
60数名の命日と階級、戦病死・戦死の区別などを丁寧に記した霊簿がありまして、それが今でも自坊の過去帳の一番後ろにはさんであります。

そういう死線をさまよう体験の中で、多くの戦友の死を目の当たりにしてきたわけです。
 
昭和20年8月に休戦命令が出て、やがて日本の敗戦を知り、捕虜になるのか、殺されるのか、一時は死ぬ覚悟もしたそうです。半ば捕虜のような扱いの中、週に一度、オーストラリア軍の点検を受け、翌21年の5月上旬に海岸へ集結せよとの命令が出ます。
5月21日にアメリカの輸送船「リバティー号」に乗船、わずか9日間で和歌山の田辺港に到着し、そこで解散式をおこない復員しました。
 
それから京都へ出て、輸送列車に乗ります。
戦場で日本は全滅したという噂を聞いていたけれども、京都は被害を受けていなかったので、半ば安心したそうですが、横浜で列車を降りて二葉町の師匠のもとへ帰ったところ、師匠の及川上人は前年5月29日の横浜大空襲で亡くなっていました。
及川上人は、自分が最期まで七面教会を守ると言って、空襲でも逃げようとしなかったそうです。
 
途方に暮れていた師父は、着の身着のまま、毛布2枚と飯盒1つ、わずかな乾パンを背に、川崎の大叔母を訪ねますが、ここも焦土と化し、近所のバラックに住んでいた人から、東京の葛飾の知人宅に身を寄せていることを聞き、ようやく大叔母と再会します。
それから本所深川で日雇いで働いては、日当の25円を世話になった知人宅に入れ、やがて軍隊の上官や横浜の信徒の好意で、大叔母を引き取って横浜金沢の復員宿舎で暮らせるようになり、わずか7軒の信徒をたよりに、教会の再建に尽力したのです。
 
その後、間借りの生活から借家へ移って信徒の輪を広げ、さらに苦労を重ねながら昭和32年に結婚し、昭和34年に私が生まれます。
そして昭和38年に七面教会の「お堂」の再建を果たすことになるのです。
 
このような話を、私は高校2年生の時に初めて聞いて、先代からの思いを受け継いでいかなければならないなと思い、改めて自分の進路を決断したわけです。
師父には、こうした私が生まれる前の歴史があり、その後もまた、いくつか乗り越えなければならない山が出てきます。
 
横浜には日蓮宗の教会・結社が30以上もあり、全国の中でも特徴的なのですが、寺院のように檀家ではなく、信徒を対象としていますから、なかなか大変です。
そこで「立正和協会」の先輩の導きと、仲間と関わることによって活路を見出し、会長職を22年も務めながら、七面教会を発展させる基礎を固め、いつかは寺院を建立したいという夢をもって地道な活動を続けてきました。
 
師父にとって大きな山が昭和61年に訪れます。
昭和61年の年末、師父は突然、病に倒れました。
胆管の腫瘍で、全身に黄疸が出て、肝臓や十二指腸も侵されていました。
当時、肝臓の手術はほとんど不可能とされていて、初めてその技術が導入された時期です。
それに巡り合わせたわけで、昭和62年の2月16日に手術を受けることになります。
それは奇しくも宗祖日蓮大聖人の降誕会の聖日で、こちらが選んだわけではなかったので、師父は、これは御祖師様がお守りくださるに違いないと信じて手術に臨みました。
実のところ、私と母は医師から、助かる見込みはほとんどありません。できるだけのことはやってみますが、2時間以内に手術室から出てきたら諦めてくださいと言われていました。
 
午前11時に手術が始まって、出てきたのは夜中の12時を回っていました。
なんと13時間半に及ぶ大手術。
手術は成功しましたが、内臓はかなり切除しました、と言われました。
胆嚢と十二指腸を全摘、胃を3分の2、膵臓を半分、肝臓を4分の1切除…と、それを聞いただけでも、お腹が半分になってしまったような気がしました。
今後の病巣が広がらないような措置として、できる限りのことをしましたと言われました。
ただし手術後の5年生存率が7パーセント以下の病気でしたから、これは奇跡的なことだと今でも思っています。
師父は術後の後遺症に苦しみながら、それを克服して13年も生きたわけですからね。
 
その後のこととして思い出すことは、私は平成元年に結婚して、平成2年の6月に長男(現副住職)が生まれます。
師父には以前から言われていたのですが、荒行に入る決心をしました。
それまで大学の研究室におりましたので、その当時、荒行に入るということは学問研究の道から外れることと見なされていましたので、ためらいがありました。
師父からはこのように言われました。
「荒行は修法の伝授を受ける場ではあるけれども、それよりも大事なこととして、荒行というのは社会の縮図だよ、お前は集団生活の経験がないから、その中に身を置いて修行してこい」と言われました。
私自身も精神的な未熟さを感じていましたので、長男が生まれた年に、千葉県市川市の遠寿院で修行させていただきました。
そして図らずも、荒行を成満した直後に、仏教学部の助手という道が開かれてくるわけです。
 
それから先ほど申しました、教会を「お寺」にしたいという師父の夢が平成9年に叶うことになります。
その前の平成6年5月に先代の及川上人の50回忌を営み、直後の10月に七面大明神の御尊像を、それまで小さな御尊像を安置しておりましたが、縁あって大変に由緒のある大きな御尊像をお迎えすることになりました。
その2年後に、今度は近所の土地を手に入れるチャンスに恵まれまして、70坪ほどの土地ですが、教会とは道路をはさんだ筋向かいで、しかも私の住まいの地続きという、願ってもない場所なので購入することに決めました。
師父が蓄えてきた財産をすべてそれに費やし、檀信徒の寄付と、銀行からの借り入れによりまして、そこに新たに本堂を建立し、さまざまな条件をクリアして、平成9年10月に「七面山妙恵寺」という寺号を公称しました。
師父の夢が現実になったわけであります。
 
さらに平成11年のことですが、師父のもう1つの夢でありました、インドへ行きたいという願いも叶うことになります。
身体もだいぶ弱っておりましたので、ちょっと無理かなと思いましたが、立正和協会のお上人方と、京都の三木随法上人もご一緒に、インドの仏跡参拝にまいりまして、霊鷲山にも籠に乗ってお詣りすることができました。
 
「これでもう思い残すことはないよ」
ということを私に言い、檀信徒に対してもそのように言っておりました。
みんなは半分冗談のように聞いておりましたが、かなり身体が衰弱して足も腰もつらくなって、内臓の大手術をしていますから常時下痢の状態だったわけです。
その翌年、平成12年の7月15日に入院しまして、10日目に脳梗塞を起こします。
実はその前に身体の痛みを訴えておりましたので、痛みを和らげるための措置をしてもらわなければならないのかなと思っていた矢先でした。
脳梗塞ということは、自分でもう痛みを感じなくなったわけですね。
5日から1週間の余命と言われましたので、特別な装置は付けずに、できるだけ自然にして下さいと担当の先生にお願いしました。
 
覚悟はしていたものの、それは8月2日の明け方でした。
私の弟が付き添っておりまして、明け方に電話を受けました。
ちょうど病院に駆けつける車の前方に、朝日が昇ってきました。
病院は東の方にありましたので、その朝日がとてもキラキラと輝いていました。
ああ、師父は太陽になって天に昇っていったんだなと強く感じました。
 
第十七回忌という節目にあたりまして、教会からお寺への歴史というものを改めて思い起こしながら、先代の遺徳を偲びたいと思います。
以上が住職の法話でございました。


先代の第十三回忌の際に、このような話を初めて知り、私自身もこのご縁を繋いでいきたいと感じ、出家を志しました。
それから4年。ようやく無事に一人前の日蓮宗の僧侶となることができ、住職と共にこの法灯を継承していくことができるということが、激動の時代を生きた先々代の当山開基及川上人、先代の日幹上人への一番の御恩報じになるのではないかなと感じております。
きっと魂の世界から私たちを見守り、導いてくれるものと思います。
これを機にまた気持ちを引き締めて、精進して参りますので、今後とも、妙恵寺をよろしくお願い致します。
合掌。
裕真。
 

 

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