掲示板「高原穿鑿の喩え」

今月の掲示板は「高原穿鑿の喩え」についてです。

〈如人渇須水 穿鑿於高原 猶見乾燥土 知去水尚遠 漸見湿土泥 決定知近水〉
訓読では「人の渇(かっ)して水を須(もと)めんとして、高原を穿鑿(うがち ほ)るに、猶(なお)かわける土(つち)を見ては、水を去ること 尚(なお) 遠しと知り、漸(ようや)く湿(うるお)える土泥(つち どろ)を見ては、決定(けつじょう)して水に近づきたりと知るが如し」と読みます。

この「高原穿鑿の喩え」は法華経の法師品第十で説かれており、法華七喩と呼ばれる代表的な喩えには含まれていませんが、有名な喩え(教え)です。
高原は砂漠、穿鑿は「せんしゃく」と読み、掘るという意味です。

前章である授学無学人記品第九までは声聞に授記(成仏の保証)することが主題でしたが、この章からは菩薩(特に薬王菩薩)が説法の対象となり、お釈迦様滅後の布教が主題となる、とても大事な章になります。

高原穿鑿の喩えの直訳は「ある高原で水を求めて穴を掘る時、乾いた土が出てくる間は水に辿り着くことは遠い。ようやく湿った土泥が出てくれば、水に近づいてきたことを知る」です。

高原(砂漠)は「人」、水は「悟り(成仏)」を表し、水を求めて穴を掘ることは「仏道修行」を表しているのかもしれません。
掘ってもサラサラした砂しか出ないうちは水(成仏)からは程遠い。しかし、水分を含んだ泥が出てくるようになれば、それは水(成仏)が近いことの証拠だと喩えます。

この喩えは、法華経の教えに出会い、その教えを聞いて信じ、理解して修行する者(菩薩)は、砂漠で水を求めて穴を掘り続けて水分を含んだ泥まで到達した時のように、仏道修行において成仏に近づいているのだ、ということを仏道修行者たちに教えています。

この「高原穿鑿の喩え」ですが、法師品全体の教えの中の一節であり、前後の教えの部分と切り離し、喩え話の部分だけで理解しようとすると、少々難しくなります。
繰り返しになりますが、法華経の教えに出会い、信じ、理解して修行しないうちは成仏から程遠いが、法華経の教えに出会い、信じ、理解して修行することで成仏に近づいているのだ、と前後の教えも含めて説かれています。

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