〈郷土史微考〉根岸党と鶯谷「伊香保楼」「志保原亭」

「根岸の里」広重『畫本江戸土産』(国文学研究資料館所蔵)/出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/200013687

 要伝寺のある「根岸」の地は、古くから文人墨客の里として知られます。
 幕末の天保年間に刊行された江戸のガイドブック『江戸名所図会』巻6「根岸の里」には、「呉竹(くれたけ)の根岸の里は上野の山陰にして幽趣(ゆうしゅ)あるが故にや都下(とか)の遊人(ゆうじん)多くはここに隠棲(いんせい)す」とあり、根岸の住人としては、画人の酒井抱一(1761-1828)、儒学者の亀田鵬斎(1752-1826)、浮世絵師の北尾重政(1739-1820)はじめ天保6年(1835)には文人だけでも30名を数えたといいます。
 明治時代には、夏目漱石(1867-1916)の盟友にして定型韻律詩の泰斗正岡子規(1867-1902)も、明治27年(1894)から歿するまで上根岸に住み、根岸短歌会には高浜虚子(1874-1959)や河東碧梧桐(1873-1937)も日参しました。また、子規の人脈とは別に、根岸周辺に居を構えた文人たちの集団がありました。明治20年代前後より随時形成されてゆく「根岸党」「根岸派」などと称されるその一団は、文士や画家を中心とする集団でしたが、文学上もしくは芸術上の結社的意味を持つものではなく、互いの居宅の立地条件や共通の趣味を介した交遊から生まれた集団でした。彼らは根岸を中心に酒宴や旅に遊び、数々の文学作品や芸術を創出し、やがて文壇の一派として認識されるようになります。
 根岸党に名を連ねる構成員には、文学者として幸堂得知(1843-1913)・饗庭篁村(1855-1922)・須藤南翠(1857-1920)・宮崎三昧(1859-1919)・森田思軒(1861-1897)・森鴎外(1862-1922)・高橋太華(1863-1947)・関根只好(1863-1923)・中西梅花(1866-1899)・幸田露伴(1867-1947)、美術家として川崎千虎(1837-1902)・久保田米倦(1852-1902)・岡倉天心(1863-1913)・富岡永洗(1864-1905)、実業家として高橋健三(1855-1898)・楢崎海運(-1900)・藤田隆三郎(生歿年未詳)らが挙げられます(高橋寿美子稿「根岸党の性質:「洒落っ気」という哲学」『日本文学誌要』79号、法政大学国文学会、2000年)。
 そうした文人が頻繁に訪れた名亭が、鶯谷の新坂下にあった「伊香保楼(伊香保温泉)」や「志保原旅亭(志保原温泉)」でした。

東京下谷根岸及近傍図(明治34年)にみえる「イカホ楼」「シホバラ温泉」。丸囲みは要伝寺。

 伊香保楼は、群馬の伊香保温泉から鉱泉を取り寄せてその支店となった温泉で、芝の紅葉館と併び称されるほどの大宴会のできる料亭としても知られました。敷地3000坪の敷地に木造3階建て、建坪500坪、園内には上野台上より引いた桜川・泉川の水を擁し、上野の山を借景とする中の島に赤橋のかかる東洋随一の料亭と言われました(小川功稿「明治期東京の疑似温泉の興亡―観光デザインの視点からビジネスモデルの変遷に着目して―」『跡見学園女子大学観光マネジメント学科紀要』3号、2013年)。
 『露伴全集』附録によれば、明治25年(1892)頃から毎月一回のペースで、岡倉天心・幸田露伴・饗庭篁村・斎藤緑雨・森鴎外ら根岸党の面々が“飲抜無尽(のみぬけむじん)”の大宴会を行ったことが記されています。
 また、大正6年(1917)には、鶯坂(新坂)を挟んで向かい側にあった国柱会の田中智学が、正月に国柱会中央新年大会を開催、4月に「本化妙宗式目」講学謝恩式を盛会に開催しています。

上野鶯溪料理温泉「いかほ」_豊原国周「東京自慢名物会」

 一方、志保原亭も、栃木の那須塩原に由来する温泉料亭で、こちらも7~80名の大宴会場を備え、大正から昭和にかけては隣の伊香保楼にも増して繁盛したようです。昭和16年(1941)6月には太宰治が山岸外史の結婚披露宴に尽力したこと(『太宰治研究 』2「その回想」)、昭和17年(1942)3月には中央公論社主催で永井荷風と谷崎潤一郎の対談が行われたこと(『断腸亭日常』)などで知られます。
 戦後、伊香保は廃業しましたが、志保原は泉岳寺方面に移転し、政治家や財界人が出入りする場所として名が知られるようになったと言います。

志保原玄関_東京鶯谷割烹志保原の絵はがき

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