元和元年(1615)3月28日、本是院日厳上人によって創建された要伝寺は、令和6年(2024)に第410回目の開闢会を迎えます。
天保12年(1841)、火災により焼失したため、当山の沿革・由緒はほとんど明らかではありませんが、その後、明治15年(1882)に第32世の俊中院日雅上人により当山は再興されます。
挿図は、明治37年(1904)5月、龍賀の画、如水の刀になる銅板画「東京市下谷区上根岸町 日蓮宗法住山要伝寺之景」(要伝寺蔵)で、俊中院日雅上人によって再興された当時の要伝寺の寺観を知ることができます。
これによれば、表道に面して表門(薬医門)、その左に門番所と休息所、門の正面に桁行5間・梁間4間の寄棟造り瓦葺きの本堂、その裏に祖師堂、本堂の右に書院、その両側から手前に廊下が伸び、そのうち左の廊下に玄関が続き、玄関と右の廊下を結んで清正堂(満願清正公堂)、清正堂の裏に庫裡が接し、門と本堂の間、左手には浄行堂・鎮守堂・宝篋印塔が並び、本堂の左手から奥が墓地となっていることがわかります。
そして、本堂は明治15年(1882)新築落成、表門は同28年(1895)8月改築、書院は同32年(1899)10月新築、浄行堂は同年11月改築、清正堂と庫裡は明治36年(1903)12月新築、また同37年(1904)2月には門番所・納屋が修繕、休息所が新築されたと記されています。
なお、同板画には、当時、毎月18日と24日に縁日が営まれていたことがみえます。