日蓮遺文にみる北条義時の時代~NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」をもっと面白く~

 華やかな源平合戦、誕生する鎌倉幕府、権力を巡る男たち女たちの駆け引き…。源頼朝にすべてを学び、武士の世を盤石にした男、二代執権・北条義時…。野心とは無縁だった若者は、いかにして武士の頂点に上り詰めたのか。
 合議制で政(まつりごと)を動かした義時ら13人衆のパワーゲームを描く、三谷幸喜作の予測不能エンターテインメント「鎌倉殿の13人」は、平清盛源頼朝北条政子源義経武蔵坊弁慶といった主役級の花形が脇役で登場するなど、歴史ファンを高揚させる話題性も魅力のひとつです。
 義時の生きた長寛元年(1163)から元仁元年(1224)までの歴史上の人物や出来事を、その後の時代を生きた日蓮聖人(1222~1282)はどのように捉えていたのでしょうか。ここでは、真蹟が認められている日蓮遺文中の記述を年表形式に仕立て紹介します。大河ドラマの放送に合わせて、是非、日蓮聖人の遺文も手にとってお読み下さい。
 北条義時の時代は、日蓮聖人が生きた時代の半世紀ほど前になります。当時の記録としては、源頼朝から宗尊親王までの6代に亘る将軍記『吾妻鏡』(1180年~1266年までの記録)や、九条兼実の日記『玉葉』(1164年~1203年までの記述)、天台僧慈円の記した鎌倉初期の史論書『愚管抄』、鎌倉中期成立とされる軍記物『承久記』のほか『平家物語』『保元物語』『平治物語』『源平盛衰記』『源平闘諍録』『水鏡』『明月記』などが知られますが、鎌倉幕府の史書として位置づけられている『吾妻鏡』ですら、将軍家側ではなく北条得宗家側の記述によるものであり、編纂当時に残る記録・伝承などに基づく部分も多いため、そこに何からの脚色がなされている可能性は否めません。
 それに対して、日蓮聖人の遺文中の記述は、出来事からさほど遠くない時代(約半世紀以内)における聖人の知識・認識として評価されるものであり、そこに登場する人物も、後に神格化・伝説化して物語として描かれていくようになった人物像ではないことが理解できます。
 例えば、「鎌倉殿の13人」の作中で俳優菅田将暉が演じる源義経を例に挙げれば、義経のイメージを固定化させた文献として、南北朝時代から室町時代初期成立とされる『義経記』(ぎけいき)などが知られますが、義経伝説として文学作品等に描かれる五條大橋での武蔵坊弁慶との出会い、治承・寿永の乱(源平合戦)のクライマックスを描く鵯越の逆落とし、壇ノ浦の八艘飛びなどについては、日蓮聖人は語りません。聖人当時には、こうした伝説はまだ成立していなかったことを暗示していると思われる一方で、『日女御前御返事』1511頁では、畠山重忠を「日本第一の大力の大将」と語っており、これが鵯越にあたり畠山が馬を背負ったという故事をさすものとすれば興味深いところでもあります。
 また逆に、大橋太郎の故事のように、遺文中に記述があり、鎌倉光則寺など宗門に伝説が伝わる出来事について、幕府側の記録がないという事例もあります。ちなみに、幕府側の記録には、日蓮聖人に関する一切の記述も、今日まで管見の限り確認できていません。歴史から抹消されているのでしょうか。
 歴史の「事実」はひとつですが、「真実」はそこに関わる人たちによって創られることを、様々な文献・資料を比較・検討することによって私たちは学ぶことができます。
 ここに紹介する年表は、立正大学仏教学会発行『大崎学報』154号(1998年3月)所載の拙稿「日蓮聖人の歴史叙述に関する編年的考察-日本史を中心に-」に依るものです。年表の原本はこちらからダウンロードできます。
 なお、下記に抜粋した「北条義時関係年表遺文対照一覧」は、和暦(西暦)、歴史的事項、立正大学日蓮教学研究所編『昭和定本日蓮聖人遺文』(身延山久遠寺、2000年)出典頁の順で記載しました。※印は、真蹟遺文中にみられない歴史事項となります。
 日蓮遺文の現代語訳版については、比較的新しい文献として、渡邊寶陽他編『日蓮聖人全集』全7巻(春秋社、1992~1996年)があり、下記の出典頁と『日蓮聖人全集』等との対照を可能とする総覧が、高森大乗編『昭和定本日蓮聖人遺文諸本対照総覧』(山喜房仏書林、1998年)となります。日蓮宗教師の場合は、『日蓮宗新電子聖典』から『日蓮聖人全集』を参照できますので、ご活用ください。
 日蓮遺文にみる北条義時については、川添昭二稿「日蓮と北条氏得宗-北条義時・泰時・時頼-」『日蓮教学教団史論叢』(平楽寺書店、2003年)に詳しく研究されています。
 また、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に関しては、こちらの記事も併せてご覧下さい。因みに、本作品の登場人物全体相関図は、こちらのNHK公式サイトから参照いただけます。

◆北条義時関係年表遺文対照一覧◆
仁安2年(1167)  平清盛、太政大臣となる。平氏政権樹立。…1223、1329、1708、1774頁
仁安2年(1167)  明雲、天台座主となる。…889、1328、1329、1742頁
治承元年(1177)  平重盛、内大臣となる。…1708頁
治承元年(1177)  平重盛、父清盛後白河法皇幽閉計画を諫止。…1403頁
治承元年(1177)  延暦寺の明雲、加賀守の藤原師高と対立し、師高の父の西光に訴えられて、伊豆へ流罪。途中、大津にて延暦寺山徒が奪還し、西光の平家討伐の計画が発覚したため、赦免となる。…1303、1742頁
治承元年(1177)  後白河法皇の近臣たちにより鹿ケ谷の陰謀おこる。俊寛、平清盛政権の転覆を企てたため、藤原成親・成経・平康頼らとともに鬼界島へ流罪。…1771頁
治承3年(1179)  平重盛、歿す。…1403頁
治承3年(1179)  ※平清盛、後白河法皇を幽閉(平氏政権の樹立)。…※不説
治承3年(1179)  明雲、再び天台座主となる。…1742頁
治承4年(1180)  高倉天皇と建礼門院の子、安徳天皇、3歳にて即位。…881、889頁
治承4年(1180)  ※平氏打倒のため源頼政以仁王源頼朝源義仲ら各地で挙兵(源平争乱勃発)。…※不説
治承4年(1180)  平清盛、延暦寺・園城寺を襲撃。平重衡、東大寺・興福寺を焼き討ち(12月)。…454、500、854、891、954、1063、1342、1774頁
養和元年(1181)  平清盛、熱病にて狂死する。…891、976、1775頁
寿永2年(1183)  平氏、源氏調伏のため延暦寺に起請を送り、延暦寺を氏寺、日吉社を氏神とせんとするが拒否される(7月)。…883、1304、1388、(1679)、1742頁
寿永2年(1183)  明雲、法住寺合戦において源義仲の襲撃にあい、落命す(11月19日)。…1303、1304、1329、1388、(1679)、1742頁
寿永2年(1183)  この頃、田口成良、源氏と結託し平家打倒の一翼を担う。…1393頁
寿永3年(1184)  源頼朝、伊勢外宮に安房国東条御厨を寄進。…868頁
文治元年(1185)  源範頼義経、壇ノ浦にて平家を滅ぼす。建礼門院の母平時子、安徳天皇と心中し、平知盛も自ら海中に没する(3月24日)。…454、881、892、1030、1388、1393、(1679)、1775、1811(?)、1840頁
文治元年(1185)  源義朝(頼朝の父)を殺した長田忠致を仇とする源頼朝は、忠致が平家との戦いに戦功があったため、平家打倒を待って殺害した。…1393頁
文治元年(1185)  平重衡、源頼朝によって鎌倉に招かれ待遇されるが、南都七大寺の要求により奈良に送られ、木津川のあたりで斬られる(3月)。…1775頁
文治元年(1185)  長門壇ノ浦の戦いで捕虜となった平宗盛が京都へ護送される途中、近江国篠原にて斬殺される(6月2日)。…583、1342、1403、1775、1827頁
文治元年(1185)  ※源頼朝、諸国に守護・地頭を設置(鎌倉幕府成立)。…※不説
文治元年(1185)  後鳥羽天皇即位。…881頁
文治2年(1186)  大原問答(大原談義)において、天台座主の顕真が源空の教えに帰す。…889、1032頁
文治5年(1189)  奥州の藤原泰衡源頼朝に背いた源義経をかくまうが、幕府の圧迫に耐えかねて、衣川にて源義経・藤原忠衡を攻め殺す(4月)。その後、源頼朝により奥州藤原氏は亡ぼされる。…774、1342、1506頁
文治5年(1189)  ※源頼朝、右近衛大将に任ぜられる。…※不説
建久元年(1190)  源頼朝、箱根・伊豆山両権現に詣でる(1月)。この前後に大橋太郎(九州の御家人か)、源頼朝の勘気をこうむり、鎌倉由比ヶ浜の土牢に監禁される(伝未詳)。…1171~1176頁
建久3年(1192)  ※源頼朝、征夷大将軍に任命される。…※不説
建久9年(1198)  源空『選択本願念仏集』を著す。…89、214、325、907、1031、1047、1462頁
建久9年(1198)  ※源頼朝歿す。…※不説
建久9年(1198)  土御門天皇、五歳で即位。…881頁
建久9年(1198)  ※後鳥羽上皇の院政はじまる。警護に西面の武士をおく。…※不説
建仁3年(1203)  ※比企能員の変。能員・若狭局(第2代将軍源頼家の側室、一幡の母)・一幡(頼家の庶長子)歿す。…※不説
建仁3年(1203)  ※北条時政北条政子義時の父)、2代将軍源頼家源頼朝と北条政子の長男・万寿)を幽閉し、源実朝(頼朝と政子の二男・千幡)を3代将軍とする。…※不説
建仁年間(1201~1203)  源空・大日、念仏・禅を興行す。各地に阿弥陀堂が建立される。…423、607、992、1006、1244頁
元久2年(1205)  畠山重忠平賀朝雅(源頼朝の猶子)より謀反を企てたという疑いをかけられ北条時政と対立、北条義時の大軍を武蔵国二股川で迎え撃つが敗死する(畠山重忠の乱)。…1511頁
建永2年(1207)  念仏停止により、源空、還俗させられ土佐へ流罪。…1032頁
承元4年(1210)  順徳天皇即位。…881頁
建保元年(1213)  和田義盛三浦義村の裏切りで北条義時に一族を亡ぼされる(和田合戦)。…926、972頁
建保元年(1213)  ※北条義時が政権をにぎり、執権となる(執権政治)。…※不説
承久元年(1219) 源実朝源頼家の遺児の公暁(頼家の二男または三男・善哉)によって暗殺され、源氏の正嫡終焉す。…1506頁
承久3年(1221)  後鳥羽上皇、真言宗に命じ幕府調伏のための十五壇秘法を行わせる(4月19日)。…681、883、889、979、1045、1089、1090、1236、1304、1388、(1679)、1842、1886、1887頁
承久3年(1221)  仁和寺の道助、関東調伏のため愛染明王法・守護経法を修す(5月2日、6月8日)。…884、1304頁
承久3年(1221)  承久の乱、勃発(5月14日)。後鳥羽上皇北条義時追討の命令を発し、討幕の兵をあげる。…219、683、1045、1304、1878頁
承久3年(1221)  京都守護の伊賀光季(伊賀朝光の長男、二階堂行政の孫、伊賀の方の兄。光季は、「鎌倉殿の13人」第47回―ある朝敵、ある演説―の一場面に登場)、後鳥羽上皇の倒幕計画に反対したため公家方の攻撃を受け、高辻京極の家にて屠腹焚死す(5月15日)。…1886頁
承久3年(1221)  鎌倉にて騒動おこるといわれる(5月19・20日)。因みに、『承久記』によれば、5月19日は、尼将軍北条政子が御家人を鼓舞し、「最期の詞(ことば)」を演説した日でもある。…1886頁
承久3年(1221)  北条泰時(頼時)・時房(時連)を大将とする東海道軍・東山道軍・北陸道軍が編成され、京都へ向かう(5月21日)。…683、1886頁
承久3年(1221)  美濃に派遣された藤原秀康三浦胤義三浦義村の弟)らの上皇軍、大津にて幕府軍に一掃される(6月5日)。…683頁
承久3年(1221)  宇治川の合戦(6月13日)。上皇軍、防御線を突破される(6月14日)。幕府軍、京都を占領(6月15日)。…683、1886頁
承久3年(1221)  承久の乱終結。後鳥羽上皇、隠岐に、土御門上皇、阿波に、順徳上皇、佐渡に配流。また仲恭天皇廃位(7月11日)。…219、685、881、882、972、976、979、981、1045、1068、1090、1223、1236、1329、1388、1467、(1679)、1842、1848、1879、1888頁
承久3年(1221)  仁和寺道助の侍童、勢多迦丸、斬首される(7月11日)。…981、1236、1304頁
貞応元年(1222)  日蓮誕生…※不説
元仁元年(1224)  念仏禁止の勅宣・御教書発令。…219頁

(文責 高森大乗)


*アイキャッチ画像は、歌川広重『義経一代記』より「義経智略一の谷鵯越逆落とし」(部分):シカゴ美術館Reference Number1943.613、クリエイティブ・コモンズ0(CC0)ライセンス。図版左で先陣を切るのが源義経、図版右に馬を背負うのが畠山重忠

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