【推薦図書】長谷川眞理子・山岸俊男対談『きずなと思いやりが日本をダメにする~最新進化学が解き明かす「心と社会」』(集英社、2016年)

 行動生態学・進化生物学者の長谷川眞理子氏と社会心理学者の山岸俊男氏の対談形式で編集された本書は、いじめと引きこもり、差別と偏見、グローバリズムと雇用など日本の現代社会が抱える様々な課題を最新の進化学・社会心理学・脳科学などを駆使して分析する書。
 本書の目次は下記の通り。
 第1章 「心がけ」「お説教」では社会は変わらない
 第2章 サバンナが産み出した「心」
 第3章 「協力する脳」の秘密
 第4章 「空気」と「いじめ」を研究する
 第5章 なぜヒトは差別するのか
 第6章 日本人は変われるのか
 第7章 きずなと思いやりが日本をダメにする

【本書抜粋・取意引用(含、ホームページ作者注)】

 ネアンデルタール人は、言語能力もそれなりに発達していたが、脳の構造上、芸術や原始的部落信仰(トーテミズム)、複雑な道具などを作り出せなかったと考えられている。一方、我々ホモ・サピエンス(人類)は、芸術・信仰、複雑な道具を考える知能において、ネアンデルタール人よりも優れていた。これが人類が今日まで繁栄した理由と考えられるのである。ヒトの社会が、安定したまとまりを保てる理由のひとつが、トーテミズムに代表される「幻想の共有」なのである。自分たちの部族には共通の祖先がいて、それがチーターであったりコンドルであったりする。そうしたかたちで仲間意識を共有するというのは、ゴリラやチンパンジーやネアンデルタール人にはなかった。動物の「ムレ」には帰属意識は必要ないが、人間の「ムラ」には帰属意識・仲間意識が必要であり、そこには、仲間意識を醸成する何らかのファンタジー(幻想)が必要であった。このホモ・サピエンスにおける「幻想の共有」は、近代国家においても通用する。国家のなりたちは、まさに「幻想の共有」でしかない(67~75頁)。

 なぜ人間は空気を読みたくなるのか。それは、ヒトの進化適応の環境の中では空気を読むことが重要だったからである。つまり、仲間の気持ちを忖度し、集団の調和を乱さずに行動することは、初期のホモ属にとっては生存と直結していた。学校現場で起きている「いじめ」も、ヒトの悪い心がもたらすのではない。「いじめ」は、まだ成長過程にある子どもたちが当事者となっている。つまり、彼らは社会の作り方、社会での生き方を知らない存在であり、それを学んでいる過程にあるといえる。「いじめ」とは本質的には、子どもたちが自主的に秩序を作ろうとするプロセスの中で不可避的に起きる現象で、「いじめ」を根絶とようとするのは、子どもから自主的な成長を奪おうとする暴挙に等しいのである。では、「いじめ」をなくすにはどうしたらよいか。集団があると、かならず「いじめ」かが起きるのであるから、個々人を分断すればよいかといえば、それでは根本的解決にはならない。「いじめ」は、集団生活の中ではいつでも、どこでも起こりうることで、子どもの心が荒廃したから起きるのではない(154~158頁)。

 ひきこもりは究極の対人依存症である。決して「個人主義が蔓延した結果、他者との繋がりを嫌う連中が増えた」からではない。自分からは社会に貢献しないけれども、社会からのサポートは受けているからである。原野や山奥で引きこもったら、あっという間に餓死ししてしまう。思いやり・気配りが日本古来の美徳とする風潮であるにしても、自助努力よりも相互依存のほうがいいと思う人が、それだけ増えているということである。競争社会が個人主義を助長するのではなく、そもそもユニークや個性や優れた能力は、「個性的」であるけれども、決して「利己的」「非同調的」であることと同義ではない。他者がいるから「自分らしさ」があるのであり、自分一人しかいない世界では「個性」や「自分らしさ」もない。「仲良くする」ことは倫理上重要であるが、「個性的である」ことは倫理とは無関係なのである(227~228頁)。

 日本社会の困ったところは、すべて道徳で語ろうとすることにある。いったん道徳になってしまえば、それを批判することは許されない「空気」が醸成されてしまう。そこでシステムを変えようとすると、「悪人」「裏切り者」扱いされる。太平洋戦争の日本はまさにそれであった。思いやりは確かに大切であるが、それを経済活動の分野まで適用されるとおかしくなる。つまり、他者を尊重することが最優先になれば、競争したり、人事評価することは許されなくなる。しかし、本当は健全な競争が行われることによって、男女差別や国籍差別はなくなるのである(240~241頁)。

 どうすれぱ、「びくびく」せずに友人を作れるようになるのか。それには、自分が「予測可能(プレディクタブル)な人間」になることである。いくら相手の心を推し量ろうとしても、本当に相手の心のすべてがわかるわけではない。でも、自分自身が「分かりやすい人」になることは可能である。自分の価値観や考えていることを旗幟鮮明にして、首尾一貫した行動規範に基づいて行動(言行一致)する人間になる。そうすることで、「信頼」される存在になる。それが「味方」=「友」を増やす最良の方法ではないか。それはすなわち、他人と自分の違いを明確にするということ、言い換えれば、「個性的であれ」と同時に「多様性を歓迎せよ」ということなのである(255~257頁)

 世の中のあり方を変えるには、学校教育の変革も重要になる。それは単に学力の向上だけではなく、社会の作り方から教えていくことが大切である。同年代の子どもだけで教室を作ることもやめるということから始めてもいい。いまの学校教育は、「ヒト」を一人前の「人間」に育てるために、子どもたちに何を与え、何が必要かという考察が不足しているように思える。集団の中にありながらも、集団に束縛されずに機会を自由に追究していくには、まず自分なりの「行動原理」を確立することが肝心である。教育の役割というのは、それぞれの人間に「コア」になるものを持たせるということなのだと思う。それは、宗教でもいいし、哲学でもいいし、美意識でもいい。あるいは合理性に基づいて利益を追求するでもいい。要は、他人から見て、その行動に一貫性を感じられるか否かが「信頼」「評判」を築く上で鍵になってくる。「みんな仲良くしよう」を教育方針にしては、コアが作り出せない可能性がある(267~268頁)。

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