タイトルの「化城」とは、法華経の化城喩品に由来するもので、もともとは仏陀が衆生を悟りに導くために用意した幻の城の意。本書は、戦前の昭和史をこの「化城」に譬え、満州事変、上海事変、五・一五事件、二・二六事件に始まる昭和初期の軍部独裁や関連する様々な事象に対して、石原莞爾や北一輝らの日蓮主義者がどのように関知したかを中心に、国際諜報団事件(スパイ・ゾルゲ事件)で刑死する尾崎秀実(おざき ほつみ、1901-1944)をモデルとした架空ジャーナリスト「改作」の視点から描いた歴史小説。
著者の寺内大吉(1921-2008)は、浄土宗宗務総長、東京芝増上寺第87代法主を歴任した浄土宗僧侶で、直木賞作家。本名は成田有恒。主著に『仏教入門』『念佛ひじり三国志』『沢庵と崇伝』などがある。
本書下巻の「あとがきにかえて」(下巻301頁)の中で、著者は、大学生時代に、満洲建国会議の写真を見せられた時、国旗もスローガンも掲げていない会場に、ひときわ目立つ「南無妙法蓮華経」の垂れ幕が下げられていたことに衝撃を受けた体験を述べている。翌年、日本山妙法寺の僧侶の虐殺事件となった上海事変が起こり、やがて五・一五事件から二・二六事件へと至る日本ファシズムの形成過程で、随所に顔を覗かせる日蓮主義者たちの存在を知るに及び、それは著者の中で重大な関心事になっていったという。
小説で扱う主な事件は、満州事変(1931年9月)、上海事変(1932年1月)、五・一五事件(1932年5月)、二・二六事件(1936年2月)、死のう団事件(1937年2月)、ゾルゲ事件(1941年9月~1942年4月)などであり、登場人物は、満州事変の石原莞爾(いしはら かんじ:1889-1949)、血盟団の井上日召(いのうえ にっしょう:1886-1967)、二・二六事件の北一輝(きた いっき:1883-1937)と西田税(にしだ みつぎ:1901-1937)、国柱会の田中智学(たなか ちがく:1861-1939)、相沢事件(1935年8月)の相沢三郎(あいざわ さぶろう:1889-1936)、神兵隊事件(1933年7月)の前田虎雄(まえだ とらお:1892-1953)、新興仏教青年同盟の妹尾義郎(せのお ぎろう:1889-1961)、死のう団事件の江川桜堂(えがわ おうどう:1905-1938)らである。作中には、宮沢賢治(みやざわ けんじ:1896-1933)も登場する。
昭和11年(1936)の二・二六事件で、北一輝・西田税が反乱将校と共に処刑されると、新聞記者として日蓮主義を追及してきた主人公の改作は日米開戦の直前にスパイ容疑で逮捕・投獄。獄中で良寛の『法華転』を読み、日蓮や法華経の研究に没頭しながら、太平洋戦争終戦の前年、昭和19年(1944)に処刑される…というのが本作あらすじである(なお、寺内は、前掲「あとがきにかえて」の中で、実在の尾崎秀実も晩年コラムニストから日蓮主義へと転身していたことが尾崎の遺した獄中資料から伺えるとしている)。
本作の底流に流れる「日蓮主義」については、大谷栄一著『近代日本の日蓮主義運動』(法蔵館、2001年)、同『日蓮主義とはなんだったのか―近代日本の思想水脈』(講談社、2019年)を、「折伏」については、当山公式サイトの「摂折論(摂受・折伏論)」のバナーを、「国柱会」「田中智学」については、当サイトの「国柱会館」の所在地を示す史料を発掘、および宮沢賢治と鶯谷国柱会館も併せて参照されたい。
前述の通り、主人公のジャーナリスト改作は、ソ連赤軍参謀本部の諜報員リヒャルト・ゾルゲ(Richard Sorge:1895-1944)やマックス・クリスティアンゼン・クラウゼン(Max Christiansen-Clausen:1899-1979)とともに捉えられ、巣鴨拘置所で刑死する尾崎秀実をモデルとして描かれるが、同じくゾルゲ諜報団(ラムゼイ機関)の主要メンバーとして来日したジャーナリストに、ブランコ・ド・ヴケリッチ(Branko Vukelic:1904-1945)がいた。ヴケリッチは、祖国ユーゴスラヴィアの新聞『ポリティカ』やフランス・アヴァス通信社(現在のAFP通信の前身)のジャーナリストとして、日本の紹介記事と写真を送る〈表〉の仕事をする一方、〈裏〉ではジャーナリストの職性を活かした写真撮影と収集した情報の分析を任務とした諜報活動を行っている。日独との二正面戦争を避けるべく対日工作に暗躍したゾルゲ、ヴケリッチ、クラウゼン、尾崎らの活動によって日本は南進政策へと転じ、結果、ソ連は独ソ線に注力できるようになった一方、日本は対米開戦へと突き進むこととなるのである。真珠湾攻撃前の1941年10月18日、ヴケリッチは「ゾルゲ事件」に連坐して逮捕され、終戦の年の1945年1月13日に網走刑務所で獄死する。
ゾルゲ事件前年の1940年1月26日にヴケリッチの妻となった山崎淑子(やまさき よしこ:1915-2006)の編著『ブランコ・ヴケリッチ 獄中からの手紙』(未知谷、2005年)は、拘留されていたヴケリッチと淑子がやりとりした247通の往復書簡を収録したものである。
2003年公開の日本映画『スパイ・ゾルゲ』では、イアン・グレンがゾルゲを、本木雅弘が尾崎秀実を、ウォルフギャング・セッシュマイヤーがクラウゼンを、アーミン・マレヴスキーがヴケリッチを、小雪が山崎淑子をそれぞれ演じている。 (文責:高森大乗)
【追記】
令和6年(2024)11月7日・8日、 拓殖大学(文京キャンパス&Zoomオンライン)にて、「尾崎秀実=リヒアルト・ゾルゲ没後80周年記念国際ワークショップ」が開催。ワークショップ「ユーラシア大陸の秩序再編とインテリジェンスをめぐって」では、『ゾルゲ・ファイル 1941-1945』編者のアンドレイ・フェシュン氏(モスクワ大学教授)、『ゾルゲ伝』訳者の加藤哲郎氏(一橋大学名誉教授)・鈴木規夫氏(愛知大学教授)をはじめ中国・ロシア・日本の研究者が集い、これまで最も謎につつまれているゾルゲの上海時代や朝日新聞記者・尾崎秀実の中国での活動に光をあてた。
講師・講題は以下の通り(敬称略)。
加藤哲郎(一橋大学名誉教授)「ゾルゲ事件研究の現段階」
蘇 智良(上海師範大学教授)「上海から東京へ:陳翰笙のインテリジェンス生涯」
フェシュン・アンドレイ(モスクワ大学教授)「尾崎とゾルゲとの個人的・事務的関係」
長堀祐造(慶應義塾大学名誉教授)「ゾルゲと魯迅との距離」
洪 小夏(上海師範大学教授)「抗日戦争後期における日本軍と新四軍との秘密交渉」
田嶋信雄(成城大学名誉教授)「重慶からの『独ソ開戦』情報」
徐 青(浙江理工大学副教授)「石榴の花が咲く頃ーー逝去50年・王瑩女史の軌跡」
馬 軍(上海社会科学院研究員)「ゾルゲ事件に巻き込まれた金若望」
鈴木規夫(愛知大学教授)「尾崎秀実の〈東洋哲学〉」
臧 志軍(復旦大学教授)「中国のゾルゲ研究における資料問題」