宮坂宥洪著『仏教が救う日本の教育』(角川書店、2003年)

 伝統的精神文化が現代日本の教育を健全化するとの見地から、日本のあるべき教育の姿を提唱。人権・平等・自由を偏重する、今日の人間中心主義の日本の教育に警鐘を鳴らす書。

【本文抜粋(取意)】
 教育は崇高かつ神聖な大事業である。「三歩下がって師の影を踏まず」という礼節があるところに、教師はみずから襟を正し、人格をみがき、それをみて生徒は人倫の基礎を学ぶのである。これが日本の伝統的な教育の精神であった。この毅然(きぜん)たる師弟のあるべき人間関係を、戦後、「封建的だ」の一言でぶちこわしてしまったのだ。(中略)教師は時には生徒の目線に立つことも必要であろう。だが、教える側の目線がはるか高いところになくて、生徒は何をめざせばよいのか。「近代化」のスローガンのもとで、今日の教育の惨状を招いたのは明らかである。ほとんど看過されていることだが、「近代化システム」の恐るべき特徴は、この中では礼儀も道徳も人間としての人格も気高さも一切考慮されない、ということなのである。
 今の日本の子供の堕落ぶり、汚い言葉遣い、礼儀作法の欠如、常識のなさは日本史上、最悪だ。でも、もっと悪いのは親のほうだ。親は子供を教育する以上、みずからも人格の向上をはからねばならない。子供に妥協してはいけない。人は親となったら文化的伝統を担う存在となるのである。それに対して子供は反撥を感じるかもしれない。それが実に健全な親子のあり方だ。その葛藤の中で親も子も成長していくのである。それがなくなってしまったのが、現代の日本なのだ。親は無理をしてでも、子供のはるか及びもつかない高い目線を持つべきなのだ。子供に媚びてはならない。子供に目標を持たせるべきなのだ。子供と同じ目線ではいけない。(41頁)

 昭和二十五年頃までは中学校でも『宗教と社会生活』という副読本が用いられ、適切な宗教教育が行われていた。社会生活を営むうえで政治や経済の仕組みを学ぶことが大切で必要であるのと同様に、宗教についても学ぶことが必要であり、それが当然とされていた時代があった。しかし、いつしか公教育における宗教教育は完全禁止とあいなった。その根拠は日本国憲法である。第二十条第三項の「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」に抵触するという理由で、それが厳格に適用されるようになった。その結果、どうなったか。公教育は完璧に猿の飼育と化した。これは決して言いすぎではない。猿は「無宗教」ではないか。家畜や野生動物には善も悪もない。美を感じる心も道徳も礼節もない。伝統も富の蓄積も祖先を敬う心もない。人間はそんな畜生であってはならないと教えるのが本来の教育というものである。(26頁)

 日本は、国全体として家族主義が今も生きている稀な国なのである。家族というのは終身雇用である。むろん能力主義でもない。優秀な息子が生まれたからといって、隣の家族にスカウトされたり、家族同士が合併されるようなことはありえない。家族は年功序列にきまっている。たとえ半身不随になろうと、お祖父さんさんのほうが子や孫よりもはるかに断然えらいのだ。家族のなかでは談合も平気で行われる。何事も話し合いで決めないような家族は家族の機能を果たしていないといえるだろう。家族の中には民主主義はない。家族の中では、競争も実力主義も平等主義もない。家族の成員は平等ではない。親と赤ん坊が平等であるわけがない。「清き一票」で家族の長が決められるようなことはありえない。家族の中では父は父の役目を果し、母は母の役目を果し、子は子の役目を果す。言い換えれば、みずからの「分」、すなわち「身分」に甘んじ、その最善を尽くすことはあたり前のことである。それは権利でも義務でもない。つまり、家族の中には「近代的なもの」が入りこむ余地がないのだ。健全な家族とは、実に封建的身分制が保たれている家族なのである。補足すると、個を個として尊重するのが現代の民主主義社会であるが、未熟な子供の個をそのまま尊重してしまうような家庭では躾も行われず、野蛮人を育てる温床となってしまうであろう。これは「前近代的」で恥ずかしいことだろうか(197頁)。

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