今から約2500年前のある年の4月8日、釈尊(ゴータマ・シッダールタ)はシャカ(釈迦)族の王である父シュッドオーダナ(浄飯王)、母マーヤ(摩耶)の長男として、現在のネパールの地ルンビニー(藍毘尼園)に誕生しました。
生後7日で母が他界したせいもあってか、王家の後継者として何不自由ない生活を送っていた釈尊も、やがて生・老・病・死をはじめ「思い通りにならないこと」の多い人生の無常を感じ、出家を志します。
6年間に及ぶ苦行の末、快楽主義でも苦行主義でも人生の無常は克服できないことを知った釈尊は、ラージャグリハ(現ラージギル)近郊に位置するガヤー(伽耶)のピッパラ樹(後の菩提樹)の下で瞑想に入り、30歳(一説に35歳)の12月8日の未明、明星(金星)が昇るとともに悟りを開いて覚者(仏陀)となったと伝えられます。この時の釈尊の悟りは、「縁起の法」(森羅万象の存在・現象などの諸法は縁によって起こり、縁によって滅するという真理)と呼ばれます。
仏陀となった釈尊は、かつてともに苦行を積んだ5人の出家者(五比丘)を訪ね、ヴァーナラシー(波奈羅斯)近郊のサールナート(鹿野苑)に赴きます。31歳の1月8日、釈尊は自身の悟りを五比丘に語り始めます。
仏陀としての最初の説法(初転法輪)で、釈尊は、苦行主義でも快楽主義でもない「中道」という偏らない生き方を示し、その具体的方法として「八正道」を明らかにしました。
その後の釈尊の伝道の足跡は、ガンジス河中流域の、当時繁栄を極めていた二大都市、マガダ(摩竭提)国の首都ラージャグリハ(王舎城)からコーサラ(喬薩羅)国の首都シュラーヴァスティー(舎衛城)にまで及びました。ラージャグリハ近郊のグリッダクータ(霊鷲山)での説法は、『妙法蓮華経』『大方等大集経』『大般若波羅蜜多経』など多くの経典にまとめられています。
80歳を迎えた釈尊は、ラージャグリハに滞在していましたが、身体の衰えと死期を覚知し、弟子の阿難を従え故国に向かって、350kmにも及ぶ最後の旅に出ました。
途中立ち寄ったクシナガラ(拘尸那竭羅)の地で、釈尊は、2本のサーラ樹(沙羅双樹)の間に、頭を北に、右腹を下に向けて横たわり、弟子たちに最後の教えを遺し、80歳の2月15日、涅槃に入ります。