「長崎新聞」に住職の寄稿文が掲載されました。

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みなさんおはようございます。本日12月5日付長崎新聞に、常在寺住職の寄稿文が掲載されましたのでご紹介致します。
長崎新聞ではタイトルの変更等、字数の問題でカットしたところもありますのでこちらには原文を掲載致します。
また、12月10日(水)午後4時から 特別公開講座「織田・豊臣政権期の肥前地方の教会勢力」〜日本イエズス会を巡る宗教力学と政治力学を中心に〜講師苫小牧駒澤大学准教授 高橋裕史先生を開催致します。
どうぞご参加下さいますようご案内申し上げます(詳細は以下のURLより)
https://temple.nichiren.or.jp/7041028-kjyouzaiji/event/837/
長崎県のキリスト教教会群等の世界遺産登録推進活動を問う
 
 
465年前、天文18年(1549年)、イエズス会の宣教師ザビエルによって日本に初めてキリスト教が伝えられました。
 
以来多くの宣教師達により九州地方を中心として、西日本一帯にキリスト教が広まることになりました。
特に大村藩においては、大村純忠がキリスト教に入信したことにより、藩内殆どの寺社(判明しているだけで寺院46ヶ寺、神社21社=平成26年3月発刊新編大村市史第2巻より)、仏像、墓石等がキリシタンによって破壊され、領内には80を越えるキリスト教会が建てられ、全領民はキリスト教への入信を強いられました。
 
宣教師ルイス・フロイスが記した『日本史』には「すなわち、殿がデウス(=キリスト教の神)に感謝の奉仕を示し得るには、殿の所領からあらゆる偶像礼拝と崇拝(=要するに寺社そのものや、仏像や神像、ご本尊等)を根絶するに優る者はない。それゆえ殿はそのように努め、領内にはもはや一人の異教徒(=仏教徒)もいなくなるよう全力を傾けるべきである。(中略)殿は早速家臣団挙げての改宗運動(=キリシタン化)を開始すべきである。(中公文庫『完訳フロイス日本史』10より)(括弧内は筆者)
フロイスはこうした寺社破壊を「今まで日本にいた間のもっとも大いなる楽しみを味わった」とさえ記しています。(1582年書翰・久田松和則著『琴湖の日月大村史』長崎新聞記事より)
 
又、長崎・茂木の地を大村純忠がイエズス会に寄進したことにより、岬の教会(=現在の長崎県庁所在地)は大砲等によって武装化され要塞となりました。
(この寄進についても高瀬弘一郎著『キリシタンの世紀』(岩波書店)には=彼が天正8年(1580年6月)ポルトガル船入港地長崎をイエズス会に“寄進”したのも、永年にわたる教会からの金銭的支援に対するいわば“借金の返済”的意味を持つものであると同時に、そうすることによってポルトガル船入港地を領内に確保出来るわけである=とある)
イエズス会巡察師アレッサンドロ・バリニャーノは『日本の上長のための規則』において「キリスト教徒の維持と保護のため長崎と茂木を弾薬や大砲で武装する」「長崎に多数のポルトガル人兵士を置く」「長崎のキリスト教徒人口を増加させ住民に必要な武器を与える」(高橋裕史著『イエズス会東インド巡察使アレッサンドロ・バリニャーノと「日本の上長のための規則」』より)とし、「海に囲まれた長崎のこの高い岬を充分堅固にし、弾薬、武器、大砲その他必要なものを配備せよ。ポルトガル人を要塞に住まわせ、そこの住人全員に武器を持たせよ」と指令しています。(第1回長崎学県民講座・松田毅一講演・長崎新聞記事より)
又、日本準管区長(当時日本はイエズス会の規定で布教区から準管区に昇格した)のガスパール・コエリョは1585年3月3日付け有馬から発信した書翰で、フィリピンからスペイン艦隊を差し向けて欲しい旨、斡旋を求めた後、さらに中国征服の件に触れて次のように述べています。
「もしも国王陛下の援助で日本66カ国凡てが改宗するに至れば、フェリペ国王は日本人のように好戦的で怜悧な兵隊をえて、一層容易にシナを征服することが出来るであろう。」(高瀬弘一郎著『キリシタン時代の研究』岩波書店より)
この書翰発信の2年後、天正15年(1587年)に豊臣秀吉は「伴天連追放令」を出しました。(伴天連とは=パードレ、宣教師のこと)
このことについて、平成元年の「長崎学県民講座」第1回の講師、故松田毅一先生(当時京都外国語大学教授)は「秀吉の行動は為政者として当然すぎることである」と述べられています。又、従来の南蛮学はキリスト教の立場に偏って書かれていたものが多かったと思われるので訂正されなければならないとも言われています。(前出長崎新聞記事より)
その松田先生の警鐘をまるで無視してしまったかのような昨今の状況は如何なものでしょう。
イエズス会等のキリスト教布教は、日本仏教文化の徹底的破壊活動の上に成り立ったものであり、又その裏側には日本植民地化の政策があったことは疑いありません。
以上のような歴史の事実を隠蔽した上、長崎県世界遺産登録推進課制作パンフレット『世界遺産候補・長崎の教会群とキリスト教関連遺産』には、「天下統一を進めていた豊臣秀吉は、1587年に突如「伴天連追放令」を発し、宣教師たちの追放を命じました」とあり(傍線筆者)、また「日本で活躍した主な宣教師」5名の中に、当時の日本布教の責任者(日本準管区長)ガスパール・コエリョの名前が無い等は只々驚きのほかありません。
加えて、政教分離や信教の自由をも脅かすような公共機関による啓蒙活動や多額の公金の使い方に対しても大変憂慮しています。
 
以上述べてきたように、現在進行中の世界遺産登録推進活動には大いに疑問があります。
今こそ日本人の矜持が問われているのではないでしょうか。
 
  平成26年11月26日
            長崎県川棚町常在寺住職 合川 天心記

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