努力はおんなのまたぢから

  おかげさまで三女も間もなく1歳8ヶ月を迎えます。
そんなこんなで 三女の出産に関して綴った『あんのん』への寄稿文をここに転載致します。



『努力はおんなのまたぢから』

  同級生と顔を合わすと「孫ができておじいちゃんになったよ」と時おり聞くようになったが、50歳を目前に私は第四子を授かった。思いがけない妊娠に喜んだのもつかの間、妻はツワリが酷く水さえも受け付けなくなる妊娠悪阻(おそ)になり、重ねて産前鬱で入退院を繰り返した。その二ヶ月間、私は家事全般を請け負うことになり、掃除洗濯に三度の食事の準備、子供達の世話とあたふたしながら法務を勤めた。日頃パートをしながらも家事をそつなくこなす妻がどれほど大変なのか身をもって分かった。
コロナ禍の出産事情で、病院では夫さえも立会いが出来ないと聞く。親としては、新たな生命誕生の瞬間を、三人の子供たちに見せたかったが、現在の感染状況からそれは諦めていた。ところが妻は「家で産みたい」と言い出した。まさか自宅で出産とは。それはそれで大変だろうなと頭をよぎったが、言い出したら利かない妻である。早速ご縁のある助産師に相談し、自宅で産む手はずを整えていった。
安定期に入る頃には辛く長かったツワリも落ち着いてきたので、体力をつけるためにと妻はウォーキングを始めた。私も時間が許す時には一緒に散歩し、家族のこと、お寺のこと、地域のこと、これからのこと…、歩きながらたくさん話をした。これまで慌ただしい日々の中、ゆっくり話す時間が取れなかった私たちにとってはとても良い時間だったと思う。
臨月を迎えた頃、助産師から妻に一枚の紙が手渡された。倫理研究所創始者、丸山敏雄の著書『無痛安産の書』に記された「安産五則」を写したもので、「お産は、自分の力でするのではなく、大自然の大きい力で産ませていただく。ちょうどよい時、よいところで産まれます。すべて自然に任せておりましょう。」等々あり、最後に「万が一心が決まらぬ時は、日頃信ずる神仏の御名をとなえ(心の中で)ましょう。そこに偉大な力が現れて、いとも安らかに産まれてまいります。」と書かれていた。妻は子供を授かった喜びもあったが、なにせ十年ぶりの妊娠の上に高齢出産ということもあり、お腹が張ったり体調が優れず不安になった時には枕元に置いた鬼子母尊神の安産札とこの言葉を励みにしていたようだ。
出産予定日を八日過ぎた深夜、陣痛が始まり、早朝に到着した二人の助産師と共にいよいよ出産の時を迎えた。平日であれば子供達も学校から早退させる手筈で担任の先生方には前もってお願いしていたが、赤ん坊は気を利かせたように皆の集まる日曜日に合わせてくれた。
仰向けで産むのかとばかり思っていたら、助産師の指示で妻は膝立ちになり、ベッドに腰かけた私の腰に手を回し、タックルしているような体勢で陣痛に呼吸を合わせた。ここで私に出来ることは、妻の背中をさすり祈ることだけ。陣痛の痛みはそれは苦しそうではあったが、助産師が赤ん坊は今どこにいるのか、どのような状況なのかをその都度説明してくれたので妻は安心して痛みを受け止めているようだった。 助産師を志す長女は2人の助産師のサポート役に徹し、次女は懸命に妻を励ます役、長男は汗だくの妻をうちわであおぐ役とそれぞれが役割を担いながら、赤ん坊が出てくるその瞬間を見ようと固唾を飲んで待っている。
頭が出始めると「髪の毛が生えてる!」。顔が見えると「わぁ!カワイイ!」と興奮していた。赤ん坊は顔を上に向けて出始め、自ら肩をすぼめて回りながらスルリとこの世へ飛び出した。まさに産み落とすとはこの事か。助産師が受け止めてすぐに股の下から妻に手渡し、妻は胸元に抱きよせた。へその緒は長女が切った。数分後に出てきた胎盤を見せながら、助産師はそれがお腹の中でどのように機能していたかを子供達に説明してくれた。母親と赤ん坊を繋ぐ命綱であった胎盤、役目を終えた後は庭先に埋めた。 自宅で産むなんて昔の話、病院で産むのが当たり前だと思っていた。しかしこれまで3人の出産を思い起こしてみると、お腹の大きくなる妻を目にしながらも赤ん坊や母体が今どんな状態なのか知らなかったし、立ち合いしながらも、どのようにして産まれ出てくるのか分からず、気づいた時には「はい、お父さん」と手渡されたわが子を受け取るだけだった。
自宅で産むということは母体の健康管理を徹底し、出産の流れを家族で学び、まさにチームで新しい命を迎えるという覚悟が必要だった。自宅という日常の生活空間で行われた出産は、信頼できる助産師と家族の見守りの中とても温かく心地良いものであったし、何より、十月十日、チームで苦楽を乗り越えてきた日々があったからこそ、この手に抱けた小さな命を前に感慨深いものがあった。
「努力はおんなのまたぢから」と小学生時代の担任教師がよく口にしていた。その昔、鬼子母神は人の子をとって食べていた夜叉であったが、五百人とも千人とも言われる子供を産み育てていた母でもあった。お釈迦さまに諭され改心した後、女性の社会的地位が低かったインドで女でありながら法華経の守護神となった。我々日蓮宗僧侶をはじめ、法華経信奉者を常に見護ってくださるその偉大な力に包まれていると、やはり「おんなのまたぢから」には頭が下がるのである。 (あんのん22' より転載)

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