頭を下げる

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 当寺で安産祈願をされたご家族が、
無事に第二子を出産後、
そのお礼参りにご参拝されました。
 お参りが終わると、
一歳の長男さんが、
ようやく歩き始めたヨチヨチ歩きで、
御宝前に向かって手を合わせ、
「あっ」「あっ」と声を発しながら、
そのちっちゃな背中を丸め、
仏様に深々と頭を下げていました。
 聞けばご両親が共働きのため、
生後半年頃には保育園に入園し、
夜遅くまで仕事のご両親に変わり、
祖父母がお迎えに行かれ、
そのままご実家で夕食やお風呂などを済まされていらっしゃるとのこと。
 そのような中で、
信仰熱心な祖父母が朝な夕なにお仏壇に向かって手を合わせ、
頭を下げられている後ろ姿が、
まだものごころのつかないお孫さんの真っ白な心に、
自然と染み込み、
行動に現れているのだろうと感心いたしました。
 近年の核家族化により、
祖父母と過ごす時間が激減。
それに加え隣保付き合いも希薄になり、
近所のおっちゃんおばちゃんのお世話になることも少なくなり、
両親の言動だけが子供にとっての指針となりがちです。
 近頃は、目上の人に対して敬語を使えない、
誤ったことをしても頭を下げれないという若者も少なくありません。
 自分が育っていく過程で、
親以外にもたくさんの人々が眼に見えないところでも関わり合って、
今の自分があるということに気づく。
見えないものを感じる力が育まれれば、
おかげさまやいのちのありがたさを感じ、
自然と、人を敬う言葉や素直に頭を下げることも出来るのではないでしょうか。
 また「頭を下げる」という行為は、
そこに自分より上の存在がある。
ということも示します。
小さな子供にとって、
大人は「なんでも出来る、頼りになる、かなわない存在」であるはずです。
その大人が、
毎日頭を下げているという後ろ姿を見て
「大人でもかなわない存在がある」
目には見えないけれども
「いつも見守ってくれている存在がある」
ということをしっかり学び取り、
一人で生きている訳ではないということを
「頭を下げる」という行為は教えてくれます。
   日蓮大聖人は
   「天晴れぬれば、地明らかなり。法華を知るものは世法を得べきか」
と、法華経の信仰によって、
人としての知恵の灯火が心に灯り、
社会生活での正しい判断が自然に身につくと教えられました。
まずは親が自分の身を振り返り、
自分の姿を正していかなければならないのですね。

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