11月18日、東京発はやて103号に乗り込んだ私は、新花巻で釜石線に乗り換え、目的地である釜石を目指しました。
今まで被災地入りする際には、自家用車かボランティアバスでした。在来線を利用するのは初めて。一般路線を走るディーゼル車を利用したのは、学生時代の川越線以来かもしれません。
釜石線と並行して伸びる国道283号線は、花巻市と釜石市を繋ぐ全長100km近くに及ぶ幹線道路で、途中遠野市を経由する重要な経路です。震災発生から今日に至るまで、人員や物資の補給路としても大変重要な役割を果たしました。前回、私が釜石を訪れたのは一周忌の頃で、遠野の智恩寺様の辺りから一面雪景色でした。宮守川橋梁(通称めがね橋)を越えて、峠道を釜石に向けて恐る恐る車を走らせた記憶があります。そして今回は、燃えるような原色に彩られた奥州の山並みが、圧倒的な存在感で私を迎えてくれました。
最初に向かった釜石市内にある仙寿院の芝崎惠應御住職は、震災の発生直後から寺院を避難所として開放され、一時は700人を超える被災住民で膨れ上がったそうです。また、次々と搬送される御遺体が、学校の体育館に移送されるまでの暫くの間、安置所としても提供されていました。その後住職は、151日間避難所を運営され、現在では当時の様子や現状における問題点などを、全国を巡り無償で語り継がれています。
お話の中で、印象的な内容が幾つかありました。
「佛祖三宝への給仕第一を旨として、お寺を預かっている我々だからこそ、有事の際に躊躇なくスムースに立ち回れる利点がある。混乱する災害時において、被災者の受け入れなどでは、我々が判断して率先して動くこと(動かざるを得ないこと)が多かった。」
「避難所内の連携も、挨拶をしたり、感謝の言葉が言えたり、仏様に手を合わせたりするなど、普段から人と人との交流を大切にしている人や、神仏や他者への感謝の気持ちを表現出来ている方は、誰に言われるでもなく能動的に動いてくれていた。」
「震災以来、多くの皆さんが現地を慰問に見えられているが、そのような(慰問の)場、特に我々僧侶の前では、明るく気丈に振る舞われる方が多い。そんな明るさの中に、ほんの一瞬垣間見る淋し気な表情を見逃さないで欲しい。それこそが真実の姿である。」
そして、『慰霊はされていても、鎮魂には至っていない。』との、各地で報告されている霊的現象について尋ねると、この地にも確かに彷徨える御霊が存在し、多くの証言者がいらっしゃることを明かされました。
大槌町の蓮乗寺では、法要の後木藤養顕御住職先導の下、同寺和讃講の皆さんも参加して、赤浜地区までの道程を約50分かけて唱題行脚しました。
荒野と化した町の中心部を望む大槌町中央公民館前に、昨年設置された『3・11大槌希望の灯り』は、2度目の冬を迎えようとしています。町内のあちこちには、地盤を嵩上げする為の盛土が積まれていました。嵩上げの規模は、2mから高い所で5m以上。そこに家屋が建つまでには、まだまだ長い年数を要します。
あの灯火に、町の人達が希望を実感出来るのは、何時の頃になるでしょうか…
その他、浪板海岸での浜供養や赤浜体育館をお借りしての「法話とお茶の会」など、諸々の活動に参加しました。その中でも大槌病院の勤務医であり、日蓮宗教師でもある宮村通典先生にお会いし、お話を伺えたことは、私にとって大変意味深い経験でした。
宮村先生については、普段から懇意にしていただいている大阪真如寺の植田観樹上人から伺っていました。心療内科医であり、地域医療に貢献される傍で、篤信家のご両親の影響もあり53歳で出家されたこと。身延や真如寺にて、ご修行を積まれたこと。長崎県大村市で住職をされていた実弟を、昨年亡くされたこと。震災後、宮沢賢治の詩に心を突き動かされ、ご夫婦で大村から大槌町へ移り住まれたことなど…マスコミにも取り上げられて、そのご高名は当管区にも広く知られてはいましたが、私はそのお顔もお人柄もよく存じ上げませんでした。この度の支援活動にて、2日間行動を共にさせていただき、間近でご夫婦のお姿に接し、貴重なお話を数多く伺えました。
あくまで私が感じた印象ですが、先生の行動の規範は本当に簡明率直。(恐らくは、私にも分かり易く、ちょうど良い具合に噛み砕いてご教示下さっているせいもあるでしょうが…)
大変なご決断をされる時であっても、“良心”のままに行動される真摯なお姿が何時もそこにあって、その柔和なお顔からは過去のご苦労を微塵も感じさせません。それは、奥様からも同様の印象を受けました。
「何時かは乗り越えなければいけないですよね。」と、仮設住宅を訪問した際、自分に言い聞かせるように尋ねられるケースが幾つかあり、私はその度に「無理に乗り越えようとする必要はないんですよ。」「苦しくなる時もあるかもしれないけれど、寄り添ってあげて下さい。」とお答えしました。
また、傾聴させていただく内容が、一周忌を過ぎた辺りから徐々に変わって来たように感じていました。今までのような断片的な内容を繋ぎ合わせたものではなく、鮮明な記憶を淀みなく、そして時には何年も何十年も遡って時系列に語られるお話は、大変重みを増す内容でした。聞いていて自分の胸が苦しくなり、治療の手が止まりそうになることさえありました。
そんな経験を、初めてお会いした宮村先生にお話ししていました。
今回の傾聴活動については、足元の悪い中多くの方に来ていただき、僅かな間でもご一緒させていただけたことに感謝しております。ただ、一人一人治療をしながらのシチュエーションとは異なり、多勢の方に混じっての傾聴活動には、ある程度掘り下げた内容のお話を伺うには限界があると感じました。
私が仮設住宅で胸が押し潰されそうなお話を聞けたのも、個別治療か或いは集団の輪から離れた場所に相談の席を設えた時でした。専用の相談ブースのようなスペースを作るか、集団と個別の懇談時間帯を分けて対応することが、より深い心の内を知る機会になるのではないかと思います。
仙寿院様、蓮乗寺様、そして宮村先生のお話を通じて、大災害などの有事の際に立ち回れるのがお寺であり、そして御遺族の心の傷を塞ごうとするのではなく、その痛みに寄り添えるのが仏教であり、今もこれから先もずっと我々からの働き掛けが必要であることを確信しました。
今田NVN会長はじめスタッフの皆様、バスや団扇太鼓など諸々の法具、仏具を用意していただいた栃木妙唱寺の近澤上人、仙寿院芝崎御住職、蓮乗寺木藤御住職、蓮乗寺和讃講の皆さん、宮村先生御夫妻、全日青会員の皆さん、赤浜体育館でお世話して下さった方々、バスの運転手さん、その他行く先々でお手配下さった関係各位の皆様方に対して、心よりの御礼を申し上げます。