第762回立教開宗会/寂照院日乾上人第379遠忌報恩法要

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本日4月28日は、『立教開宗』のご聖日です。
日蓮大聖人は、御年20歳から32歳までの12年間、比叡山の横川定光院を中心にご遊学の日々を過ごされ、あらゆる経典を紐解き研究された結果、諸経の王とも称される『法華経』こそが釈迦の本懐であり、末法の世における衆生救済の答えがあると確信されました。
 
そして、京畿遊学を終えて生まれ故郷である千葉県小湊の清澄寺に戻られた日蓮聖人は、法華経の弘通を宣されました。7日間清澄の深山に籠って禅定三昧に入り、建長5年(1253年)4月28日払暁、泰然として三昧より出で、昇り来る太陽に向って玄題十唱、ここに立教の宣言と伝道の誓願を立てられたのです。
「日本の仏教は、すべて法華経に帰一すべき。」と。
 
また、昨日4月27日は、寂照院日乾上人の御遠忌(御正当は10月27日)でした。「乾師堂」と呼ばれる日乾上人縁の地で、多くの参詣者の皆様とご一緒に、午前中は読誦行、午後には寂照院日乾上人第379遠忌報恩法要を厳修致しました。
日乾上人は、この能勢地方一帯に法華信仰を弘められ、そのご功績から「本郡授法の唱導師」と呼ばれています。天正16年に、29歳で師範日重上人の譲りをうけて本満寺8世の法灯を継承。慶長の初め頃より、旗本能勢頼次の庇護の下、摂津国(大阪府)能勢郡での教線を拡大して後、43歳にして身延山久遠寺21世となられます。
京都に戻られてから後も、鷹ケ峰檀林常照講寺の開祖となり、伝教大師の旧址と伝えられる法性山覚林寺の開山に迎えられるなど、その特筆すべき化跡は宗門内外から高く評価され、師範日重、法弟日遠と共に「宗門中興重乾遠三師」と崇敬されています。
 
能勢氏の発祥は、清和源氏多田満仲の孫頼国が、能勢移り住んで以来と伝えられています。天正8年(1580)22代目能勢頼通は、代々足利将軍家に仕えてきたことから畿内に侵攻した織田信長に組することを拒んだために、塩川伯耆守国満に謀殺されます。19歳の弟頼次が後を継ぎ塩川勢と戦いますが、劣勢のまま居城を妙見山(当時、為楽山)の山頂(大空寺趾)に移します。
天正10年(1582)本能寺の変の後、親交のあった亀岡の明智光秀に与力した頼次は、その後不遇の時代を過ごすこととなりますが、後年徳川家康に召抱えられて家名を再興します。
慶長5年(1600)関が原の戦で戦功を挙げた能勢氏は、家康からかつての領地を与えられ、この再興を機に京都本満寺寂照院日乾上人に帰依します。その後、能勢一帯を日蓮宗に改宗し、能勢法華が成立するに至ります。
※慶長10年、頼次は領内10ヶ村の寺院に対して日蓮宗への改宗を命じた。慶長・元和年中に約15ヶ寺が改宗し、寛永以降の改宗と元々日蓮宗であった寺院もあり、領内の寺院は皆法華となる。(「能勢町史 第1巻」より)
 
その日乾上人が、慶長3年(1598)に初めて能勢を訪れ、能勢頼次に法義を説いた場所が、現在の「乾師堂」なのです。
 
【参考資料】
日蓮宗事典 能勢妙見山HP 能勢町史 がらくた置場

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