第三章 各行事について
『お盆』についてのお話(1)です。
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その1
「盂蘭盆」とは、梵語の「ウラムバナ」の音写で、意味は、「倒懸(とうけん)・倒(さかさ)まに懸(かか)る」です。つまり、逆さまに吊るされるほどの苦しみの事です。言い換えるならば、地獄のような苦しみを受けている亡き人に対して、この世から供養する功徳をもって、その苦しみを救ってあげようと言う願いが込められたものが盂蘭盆会です (´ρ
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その2
この行事が一般に広がった背景には、仏教者以外の人々が七月十五日を中元(ちゅうげん)といって、先祖に供物を供え、灯籠に点火して祖先を祭る風習になっていたことにも関係しています (´ρ)ヘぇー
その3
目連尊者は、お釈迦様のおられる塔に供養の食物を「盆」に盛って捧げ、大勢の仏弟子にご馳走をしました。人々は喜び、その喜びの声の中、彼の母はその功徳により餓鬼道の苦しみを逃れ、天上界に昇っていきました。この事で、仏弟子の喜びが二重になり歓喜の踊りをしました。これが「盆踊り」の起こりと言われています (´ρ
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Q1 お盆
A 古くからの農耕儀礼や祖霊祭祀などが融合して伝えられてきたのが日本のお盆と考えられています。
仏事としてのお盆とは、正しくは「盂蘭盆会(うらぼんえ)と言います。「盂蘭盆」とは、梵語の「ウラムバナ」の音写で、意味は、「倒懸(とうけん)・倒(さかさ)まに懸(かか)る」です。つまり、逆さまに吊るされるほどの苦しみの事です。言い換えるならば、地獄のような苦しみを受けている亡き人に対して、この世から供養する功徳をもって、その苦しみを救ってあげようと言う願いが込められたものが盂蘭盆会です。
またもう一つの説として、日本古来の民族宗教的色彩をもった行事です。
この習慣で言う盆は、盂蘭盆の省略ではなく、供物をのせるための器物の名で「ボン」と呼ばれた日本語であったとも言われています。
その意味は、死者や祖霊を祀る事と同時に生きている親にも供養するという、仏教以前からの日本の固有信仰の名残りも持っているのです。つまり、魂祭りとしての「ボン」が仏教の盂蘭盆と融合しあったものという説です。
このように盂蘭盆は、仏教信仰と同時に父母の孝養という色彩が濃厚に取り入れられていましたから、民間に伝播するに従って、日本古来の霊魂信仰と結びつき日本独特の盂蘭盆行事が行われるようになってきたのです。
Q2 お盆の起源
A 盂蘭盆会の中国での起源は随分古く『仏祖統紀(ぶっそ とうき・中国宋の時代、一二六九年全五十四巻で完成)』には、梁(りょう)の武帝(五三八年)が自ら同泰寺で盂蘭盆斎を設けたことが伝えられています。
この行事が一般に広がった背景には、仏教者以外の人々が七月十五日を中元(ちゅうげん)といって、先祖に供物を供え、灯籠に点火して祖先を祭る風習になっていたことにも関係しています。この両者が一つとなって、盂蘭盆の行事がいよいよ盛んになっていったと考えられています。
日本での盂蘭盆会は、日本書紀に、推古天皇の十四年四月(六〇六年)に、毎年四月八日と七月十五日に斎を設けるとあり、また斉明天皇の三年(六五七年)には、須弥山(しゅみせん・仏教の世界観で、世界の中心にそびえ立つという高山)の像を飛鳥寺の西につくって盂蘭盆会を設けたと記されていますし、同五年七月十五日には、京内諸寺で『盂蘭盆経』を講じ、七世の父母に報謝させたと記録されています。
Q3 お盆のいわれ
A 「盂蘭盆経」にでているお盆の由来を説明します。
昔お釈迦様の弟子に優れた神通力を持ち、とても心の優しい目連(もくれん)尊者という人がいました。彼は、亡くなった母が死後の世界の内、どのような所で、どのように過ごしているのかをその神通力を持って訪ねたのです。すると安らかな仏の世界ではなく、餓鬼道という世界で鬼のような顔をし、お腹はふくれ、喉(のど)は糸のように細く、体は骨と皮ばかりの有様(ありさま)の母親を見つけました。
お腹が大きいと言うことは、欲望が大きいと言う事を表しています。反対に、喉が細いと言う事は、欲望を満足するためには大変な苦痛を伴うと言う事を表しているのです。
仏教の真理の中に因果という法則があります。仏様が裁いて人の行方を決定したのではありません。それぞれの行動や言葉、心の持ち方が原因となって果報としての結果を招くのです。因果応報なのです。
目連尊者のお母さんは、彼の知らない一面を持っていました。彼には優しかったお母さんも他人に対してはひどい仕打ちをしていたのです。人に恵んだり、施すことは一切しなかったのです。目連尊者は、思いました。お母さんのこの様な行いは全て自分を育てるため、息子を食べさせるために違いない。そう思った目連尊者は、食べ物や飲み物を神通力で届けましたが、全て炎となって燃えてしまい、お母さんは食べることができません。何とかして助けようとして、色々試しましたが、どうすることもできませんでした。困り果てた彼は、お釈迦様に母を助けて下さいと頼みました。
お釈迦様は、「おまえの母親は生前、人に何も施しもせず、欲張りの心が強く、人に意地悪をし、そのことからこのように餓鬼道に落ちたのだ。おまえの神通力といえども救うことはできない。救うには、出家僧の夏の修行が終わる七月十五日の自恣(じし)の日に、その僧達を招いて、精一杯のご供養をしなさい。」と言われました。
そして仏弟子達に、目連尊者の為、彼の七世に渡る父母の為に祈念するように命じました。
彼は、お釈迦様のおられる塔に供養の食物を「盆」に盛って捧げ、大勢の仏弟子にご馳走をしました。人々は喜び、その喜びの声の中、彼の母はその功徳により餓鬼道の苦しみを逃れ、天上界に昇っていきました。この事で、仏弟子の喜びが二重になり歓喜の踊りをしました。これが「盆踊り」の起こりと言われています。
修行僧には、夏安居(げあんご)と言う期間があります。その期間は雨期の為、外に出歩くと虫たちを殺生してしまうので、旧暦七月十五日までの三ヶ月間、一室に籠もって修行しているのです。
その夏安居が終わる日が自恣の日で、自(みずか)ら恣(ほしいまま)に、つまり参集した僧がお互いに罪過を指摘し、その罪を懺悔(さんげ)する日とされていました。
★大阪豊能宗務所発行『供養の心としきたり』より★