第二回五百遠忌奉行委員会

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昨日11月1日、
第二回五百遠忌奉行委員会が開催されましたビックリマーク
平成30年に、妙傳寺を開かれた円教院日意上人の
第五百遠忌を迎えますw( ̄△ ̄;)wおおっ!
その慶讃法要や、慶讃事業を法縁をあげて取り組む為、
奉行委員会の役員が集まり、話し合いの場がもたれたのです!!

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円教院日意上人とは、ご存知きらきらきら~♪
日蓮宗中興の三祖の朝・意・伝のひとりですうえ

青年僧侶のシャカリキ奮闘記

日意上人は始め天台宗の僧侶で、
天台宗の比叡山延暦寺の学頭職を務め、
伊勢国桑名(現三重県桑名市)の妙蓮寺の住職でありましたチェック
しかし日頃より仏教のこと、とりわけ法門に疑問があり、
時の身延山久遠寺第11世・行学院日朝上人と比叡山での同学の間柄から、
身延山を訪れ日朝上人に、疑問をぶつけてみました。
法義を談ずること三昼夜におよんだと伝えられています( ̄□ ̄;)!!
結果、ついに疑念が解け、日朝上人の弟子となり日蓮宗に改宗され、
改めて法華経、お題目の修学に励まれたのです(。-人-。)
やがて、日朝上人のご指示で京都にのぼり、文明九年(1477)、
京都一条尻切屋町に豪商薬屋・妙善(桑名家)の帰依を受けて妙傳寺を開創されます。
当時、関西より西の日蓮宗の信者は、身延に参詣するのが大変な時代ですあせる
もちろん車などはありませんくるま。ドコモ絵文字
そこで妙傳寺を開創するにあたり、
師の日朝上人とはかり宗祖の日蓮大聖人御真骨を奉安し、
同時に身延七面山に勧請されている七面天女と同木同体の霊体を安置することで、
関西以西の信徒の願いを満たしました。
これが「西身延」と称される由縁です。
日意上人は妙傳寺にあること二十三年。
明応八年(1499)には、日朝上人の跡を継いで、身延山久遠寺第12世の猊座に就かれましたビックリマーク
身延では、日朝上人の大事業を引継ぎ、
伽藍造営、整備拡張、諸規則の制定などに心血を注がれます。
在職二十年に及びましたw( ̄△ ̄;)wおおっ!
その後、日伝上人に後を譲り、永正十六年(1519)身延西谷に圓教坊を開いて隠居し、
二月三日ご遷化されました。世寿七十六歳でありました。
日朝上人・日意上人・日伝上人と三代にわたり受け継がれた法灯は、
日蓮宗の基礎を固められました。
ゆえに宗門中興の三祖のお一人として、今でも尊崇されております。
平成三十年二月三日には、日意上人の五百遠忌正当を迎えることになります。

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以上が、日意上人の略歴です(゚ー゚)(。_。)ウンウン
なんともすごい先師ですね(。-人-。)
無事に五百遠忌を迎えられるよう、落ち度ないよう取り組んで参ります笑

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