昨日の会合でお会いした方のお話。
かあちゃん(奥様)の両親を引き取って、二人とも送って(亡くなって)、
毎日毎日仏壇にお茶上げて線香立てて手を合わせてると、
あーオレは自分だけで生きてんじゃねぇんだな、って思うんですよ。
自分の実の両親じゃない、かあちゃんの親だけど、
いろんな縁がつながって自分が生きてるんだ、って気づくんだよね。
その会合はお寺の会合ではありません。
そのお話をしてくださった方は、当山のお檀家さんでもありません。
何気なく(飲み会の)席でお話をして下さいました。
自分のいのちは、もちろん両親、ご先祖さまから続いてきたもの。
自分一人では存在しない。
そして今いる自分も、有縁無縁のすべての存在があって初めてここにある。
なんか矛盾するようですが、「無縁」の存在も「無縁」という「縁」だと思う。
日蓮大聖人は「行学の二道を励み候べし」と仰せられました。
「行」といっても難しいことばかりではありません。
毎日仏壇に手を合わせる。これも「行」でありましょう。
自分だけで生きてるわけではない、ということは教えられ「学」んできました。
頭ではわかるけれども、何となくピンとこない。
それを「実感」として受け止めるために欠かせないのが「行」といえましょう。
どちらが欠けてもいけません。
知識を得ると解ったような気分になりますが、本当に解ってますか?
自分に照らして考えても、まだまだひどく反省させられます。
その方が最後におっしゃったこと。
孫が遊びに来ると、いの一番に仏壇に手を合わせてるんだよね。
「ことば」ではなく、「行」ずる姿が新たな「行」へと導いています。