龍口法難会 【9月12日】

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 鎌倉時代後期、日本は内乱や蒙古襲来、飢餓や疫病の蔓延など、様々な脅威に包まれていました。それらを憂えた日蓮聖人(1222~1282)は、『立正安国論』を著し、幕府に奏上しました。

 しかし、幕府はこれを政策への中傷であると受け止め、文永8年(1272)9月12日、鎌倉松葉谷の草庵におられた日蓮聖人を捕らえ、斬首するために、刑場であったこの地、龍ノ口へ連行したのです。

 日蓮聖人は、はだか馬に乗せられ、江ノ島片瀬(えのしま・かたせ)龍の口(たつのくち)刑場へと引かれていったのです。

 途中、鶴ヶ岡八幡宮にさしかかったとき、日蓮聖人は大声で「八幡大菩薩はまことの神か・・・」と、法華経の行者を守る役目を果たすよう叱りつけました。

 源氏の氏神を叱りつけたのですから、役人はびっくりして、あわてて馬を引き立てました。

 知らせを聞いた信者の四条金吾(しじょうきんご)さんは、一緒に死ぬ覚悟で駆けつけます。

 翌13日子丑の刻(午前2時前後)、引き出された日蓮聖人は、敷皮石(座布団状の石に皮を敷く)に坐らされ、評定の使者も待たず、あわや斬首になるときでした。

いよいよ首を斬ろうと、役人が刀をかまえたとたん、江ノ島の方角から不思議な光の玉が飛んできて、役人は驚いて逃げ去り、処刑どころではありません。

 「日蓮の首斬れません」という早馬が鎌倉に向かい、鎌倉からは「日蓮の首斬るな」との連絡が、小さな川で行き合い、その川は「行合川」(ゆきあいがわ)と呼ばれています。

  龍ノ口刑場で処刑中止となったのは日蓮聖人をおいておらず、爾来、この出来事を「龍ノ口法難」と呼び習わしています。
 
 日蓮聖人が、龍ノ口に連行される途中、「桟敷の尼」が鍋ぶたにのせた黒胡麻の牡丹餅をご供養したという故事に因み、9月12日の朝から講中の人々がお題目に合わせて餅をつき、手作りの黒胡麻牡丹餅(ぼたもち)を、日蓮聖人のおられるご宝前に供えます。

 この牡丹餅は、年中無難、様々な災難を逃れる効力があるとされ、「難除けの牡丹餅」として、9月12日午後6時と、13日午前零時の法要のあと、堂内一杯に集まった参詣者に行き渡るよう、高所から撒かれるのです。

 

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