学び
学、学校、学生、学業、学問、学習と私たちの周りにいつもある言葉。
現代では「学がある」とか、「学がない」とか言うのは知識を意味していることが多いようです。
仏教で学というと「戒・定・慧」という三つを学修することを意味しています。
これを「三学」といいます。
戒とは、いましめ。約束事を守るという実践です。
定とは、心を定めた静かな祈りのことです。
慧とは、智慧。正しく物事を判断し、筋道がわかり、うまく処理していける能力です。
こう見ると、現代の学問が人間、人生と離れてしまって、学によって得たものが人生に役立つことの少ないのは、仏教の「学」の考え方が全く活かされていないからのようです。
そもそも仏教の歴史を一面からみると、「学」の歴史なのです。
真理を研究して、「悟り」に至る道を学ぶこと、その妨げとなるものを断じていくことが「三学」です。
つまり、学んで得たものを単なる知識としてたくわえるだけでは無意味で、それが、「道」(生き方)となっていかなければならないのです。
「学」とは「道」です。生き方なのです。
茶道を習う人は、その心が生き方に表れる。武道もそう。
野球やテニスというスポーツも、日本では「道」という考え方、生き方、教えにまでなってしまいます。
仏教的な考え方が、魂に染み込んでいるのでしょう。しかし、学校や家庭は少し違うように思えます。
お釈迦さまは宗教家なのか。本当は偉大な教育者です。未成熟者から成熟者へと成長させる指導をしている人類の教育者です。
教育は家庭教育や学校教育、職場教育、社会教育と様々ですが、現代の教育に仏教の「三学」がもっといかされればと思います。
人の知らないことを知って自慢するより、玄関の靴をきれいに揃えている。どんな人にも、丁寧に挨拶できる。
仏教は、それこそが大切であり、学びの始めと教えています。
お寺では、仏様の教えを伝えています。