今月の掲示板は「方便品第二」の前半、十如是と呼ばれる部分の直前に出てくる一節です。
〈佛所成就 第一希有 難解之法 唯佛与佛 乃能究尽 諸法実相〉
訓読では「佛の成就したまえる所は 第一希有 難解の法なり。唯 佛と佛と 乃し能く 諸法の実相を究尽したまえり」と読みます。
法華経は大きく分けて、前半と後半に分類することができ、前半を迹門(しゃくもん)、後半を本門(ほんもん)といいます。
迹門の主眼は二乗作仏、本門の主眼は久遠実成です。法華経以前の経典では成仏できないとされていた声聞や縁覚の二乗の人たちが、法華経では成仏できると説かれました。
序品第一ではお釈迦様は瞑想し続け、ひと言も発しません。方便品第二に入り、瞑想(三昧)をやめ、立って十大弟子の舎利弗に話しかけます。
そして、覚りに至るまでの修行の過程や、その覚られた広大深遠なる尊い功徳が顕されていきます。
これらの事柄を要約して説かれたのが今回テーマとした経文です。
意味は「お釈迦様が覚られた内容はとても難しく、仏と仏のみがその覚り(諸法の実相)を極め尽くすことができる」です。
法華経は難解難入。お釈迦様の覚りのすべてを言葉に表すことはできないし、説明することもできないのです。
しかし、お釈迦様は教えを説き始めます。約40年間、衆生を法華経に導くため、やさしい教えから説いて、徐々に衆生の気根を養っていったのです。
「仏と仏のみがその覚りを極め尽くすことができる」。
自分が見たこと、行ったことがあっても、それを見たことがない人、行ったことがない人に説明するのは極めて困難なように、覚った内容を覚っていない人に説明するのは極めて困難なことです。
そのためにお釈迦様が取られたのが、「方便」という真実へと導くための手段だったのです。