令和6年(2024年)放送の第63作NHK大河ドラマ 「光る君へ」は、世界最古の長編小説『源氏物語』を生み出した紫式部を主人公に、きらびやかな平安貴族の世界に生まれ、変わりゆく世を自らの才能と努力で生き抜いた、ひとりの女性の愛の物語として描かれます。
藤原道長への想いを募らせ、秘めた情熱とたぐいまれな想像力で、光源氏「光る君」のストーリーを紡いでゆく紫式部の人生とは、どのようなものだったのでしょうか。
紫式部の出自は、藤原北家の流れを汲み、道長と同じ藤原冬嗣の子孫にあたります。藤原氏の系図では、紫式部の高祖父・藤原利基の末流に連なるのが井伊家・貫名家で、ここに日蓮聖人の父・貫名重忠が名を連ねます。このことから、紫式部と日蓮聖人は遠戚にあたることがわかります。
ちなみに、貫名家の親戚にあたる井伊家には、大河ドラマ 「どうする家康」に登場した井伊直政、 「青天を衝け」に登場した井伊直弼がいます。また、同じ藤原氏系図には鎌倉仏教の祖師である親鸞や室町期の真宗の蓮如はじめ、大河ドラマ 「鎌倉殿の13人」に登場した藤原秀衡、伊東祐親、工藤祐経、曾我兄弟らの名が見えます。
系図には所説ありますので断定的なことは言えませんが、児玉幸多編『標準 日本史年表』(吉川弘文館)より一部抜粋したものを転載しましたので、ご参照ください。
(文責 高森大乗)
なお、日蓮聖人の出自については、下記の諸説が唱えられていますが、このうちどれかひとつが有力説であるというのではなく、例えば(1)(2)(3)(5)(6)の出自を複合的に捉えることも必要です。
(1)賤民説
日蓮聖人の父・貫名重実は、安房国(現、千葉県)の漁夫であったところから、漁民の出身とする説。日蓮遺文『善無畏三蔵鈔』『佐渡御勘気鈔』『本尊問答抄』や、14世紀頃成立の大石寺日道の『三師御伝土代』等にみえる。近年、真蹟の一部と思われる断片が発見された日蓮遺文『善無畏三蔵鈔』には、「而るに日蓮は安房国東条片海の石中(いそなか)の賎民が子也。威徳なく、有徳のものにあらず」(『昭和定本日蓮聖人遺文』465頁)とある。日蓮聖人の出生には多くの謎があるが、大切なのは、周囲の人々にはあくまでも「賎民が子」、「旃陀羅が子」(511頁)、「海人が子」(1580頁)で通したことである。これは、檀越・信徒と自身とを同じ階層の出身と位置づけることで、連帯感を喚起しようとしたものと考えられている。ただし、日蓮聖人が自身を「賎民が子」と称した『善無畏三蔵鈔』は、俗兄(異説あり)であり法兄である浄顕房・義城房に与えられた書、「海人が子」と称した『本尊問答抄』も、同じく浄顕房に宛てられた書であり、いずれも聖人のことを熟知している身内に充てられていることには注意が必要である。自分のことを熟知している身内に、自分の出自について語ることほど無意味なものはないから、逆説的に言えば、日蓮聖人の出自は「賎民が子」ではなかったという仮説もたてられる。
(2)武家説
武士の出身とする説。伊勢平家の与力で安房に流謫された貫名重実の次男重忠の子とする説。15世紀後半に成立した行学院日朝『元祖化導記』、円明院日澄『日蓮聖人註画讃』等にみえる。これらによると、日蓮聖人は五人兄弟であったことがわかる。行学院日朝の『元祖化導記』には、日蓮聖人は、父貫名重忠・母梅菊の間に生まれた五人兄弟の第4子として誕生した。長男を藤太、第二子は幼少期に死亡、三男は仲三郎、四男は善日麿、五男は藤平といわれる。境達院日順の『御書略註』では、長男を藤太重政、第二子(男)は幼少期に死亡、三男は藤三重仲、四男は薬王丸、五男は藤平重友といわれる。日蓮聖人の弟にあたる藤平は、聖人歿後、遺品の分与の際に立ち会っていることが記録(『御遺物配分帳』)に残っており、実在したことが知られている。また、母方の梅菊は、武蔵国の有力御家人畠山氏の子孫であったとも伝えられる(「NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」登場人物と日蓮聖人の周辺」の項番7参照)。
(3)公家説
藤原家の末裔とする説。六牙院日潮『本化別頭仏祖統紀』(1730年)、智寂院日省『本化高祖年譜』(1720年)等にみえる。一般的に定説となっている中臣氏・藤原氏の系図(上図参照)によれば、藤原北家の末流にあたるのが貫名家で、ここに日蓮聖人の父・貫名重忠が名を連ねている。
(4)皇胤説
皇族の出身とする説。承久の乱(1221年)で隠岐国(現、島根県)に配流された後鳥羽上皇の側室亀菊(かめぎく)の子であるとする説。廣野観順『法剣数珠丸考及聖祖皇統説への一勘検』(ニチレン出版)等において検討される。日蓮聖人の母の名は「梅菊(梅千代)」であるといわれるが、仮名で書くと「かめ」の「か(可)」字と「うめ」の「う(宇)」字の変体仮名は、見間違えるほど似ていることは興味深い。日蓮聖人が鎌倉・京都に遊学できたのは、苦学僧としてではなく、経済的にも身分的にも優遇された立場であったためとも推測されている。詳細は、本サイト内ブログ「NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」登場人物と日蓮聖人の周辺」の項番8を参照のこと。
(5)荘官説
荘園管理者の出身とする説。清澄入山の背景や領家の尼(「NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」登場人物と日蓮聖人の周辺」の項番9参照)との関係から、日蓮聖人の父母は荘園の管理者である荘司・荘官であったとする説。また、「海人が子」の自称とあわせみれば、領家は漁場権をもち、荘官もこの漁場権の管理を行っていたと考えられる。高木豊『日蓮-その行動と思想』(太田出版)等において言及される。幼少期に清澄に登山しているが、清澄入山は初等教育を受けるためと考えられるので、一介の漁民としては叶わないはず。また、日蓮聖人の両親は領家(荘園領主)の尼と呼ばれる女性から御恩を蒙っていた。貫名家は、領家の所領において漁業を主たる生業として奉公していたものと考えられる。聖人は、建長5年(1253)頃、領家の尼と地頭の東条景信とが抗争した折りに、領家側について味方しているほどで、日蓮聖人の両親が蒙った御恩は並々ならぬものであったことが伺える。そうした点から、御恩の内容は精神的恩恵のみならず経済的給付の側面が強かったものといえる。
(6)権守説
海縁村落に多くみられる鎌倉期特有の権守層とする説。日蓮聖人は、流人貴族の子孫か、在地の庄官・名主・有力漁民とされる。13~14世紀頃成立の『法華本門宗要鈔』(『昭和定本日蓮聖人遺文』2158頁)等にみえる。貫名一家が、領家や地頭から「海人(あま)」と呼ばれていたとすれば、海縁村落に多くみられる鎌倉期特有の権守(ごんのかみ)層、つまり有力漁民であった可能性も考えられる。権守とは、貴族・豪族の流人が権守を称したこともあったが、日蓮聖人の場合は在地の庄官や名主と考えるのが妥当か。小湊は伊勢神宮の直轄地で、海産物などを神宮に納めていたといわれる。
(7)文筆官僚説
日蓮聖人の周囲には被官、なかでも文筆官僚(「NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」登場人物と日蓮聖人の周辺」の項番5・6参照)が多く、日蓮聖人の出自も文筆官僚の系譜をひく家柄であったとする説。中尾堯『日蓮』(吉川弘文館『歴史文化ライブラリー』130)において言及される。
(8)豪族説
三浦氏とならぶ関東最大の豪族千葉氏一門の出とする説。檀越の富木常忍・太田乗明・曽谷教信らはいずれも千葉氏の家臣で、聖人は30代の早い時期からこれらの人物の外護を受けている。『立正安国論』での外憂内患の予測も、こうした門弟から幕府内外の情報を得ていた可能性がある。詳細は、「NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」登場人物と日蓮聖人の周辺」の項番6を参照のこと。
*アイキャッチ画像は、土佐光起画『紫式部』(石山寺蔵・部分)。
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