要傳寺檀徒の系譜(その3)~要傳寺過去帳にみる寺檀の歴史~

 令和6年に開闢410年を迎える要傳寺には、創建以来400年間の寺檀(寺と檀家)の歴史を伝える、すべての檀信徒の過去帳が格護されています。
 江戸の大火や明治の廃仏毀釈、大正の関東大震災や昭和の東京大空襲等々、数々の罹災を免れ、今日までこれらの史料が伝存し得たのは、ひとえに歴代住職による格護の尽力の賜であるといっても過言ではありません。
 今日、それらすべての史料は、全点を写真撮影にて保存し、記録の全件を文字情報として電子化して管理しております。当連載第3回目にあたり、これら電子化された史料の整理・分析の成果の一端を御報告いたします。
 現在、当山には、①「年別過去帳」と総称される年代順(時系列)の過去帳と、②「墓籍簿」と呼ばれる檀徒各家の墓地ごとに管理された帳簿とが存在します。
 ①「年別過去帳」は、寛永3年(1626)から大正15年(1927)までの『元過去帳』全6巻・『霊簿』全1巻・『新寂簿』全2巻と、明治20年(1887)から平成12年(2000)までの記録を統合・整理した『年別引導霊記録』全1巻とがあり、明治・大正期の一部は年代が重複している部分もあります。これらのうち江戸期の記録には、俗名の苗字(姓)が記されないものが多く、家系を辿るのが困難な事例が多く存在します。
 一方、②「墓籍簿」には明治元年から昭和20年までの『旧墓籍簿』全3巻と戦後から現在までの『新墓籍簿』全4巻とがあます。こちらは、各家の墓地ごとに埋葬された各家先祖の記録となりますので、明治期以降については、概ね家系を辿れることになります。
 これら要傳寺過去帳から読み取れる情報を整理すると、以下の通りとなります。
 まず過去帳の最古の記録は、寛永3年(1626)7月24日の埋葬者に遡ります。要傳寺の開闢が元和元年(1615)ですので、約10年後の記録が初見ということになります。
 また、当山には、開闢以来存続する家門があり、井上家(開基檀方)、土岐家(伝・明智光秀子孫)をはじめとして、現在も4~5家の子孫が当山に墓所を構えられています。
 檀徒の生業は多様で、武家・農民・町人(職人・商人)と幅広い営みを看て取れます。
 武士の家系と想定される記録としては、殿方として「井上備前守(井上秀栄)」「土岐土佐守(土岐頼勝)」、奥方(内室・局)として、「松平遠江守の内」「酒井因幡守の奥方」「井上河内守の局」「松平淡路守の局」「船越伊豫守の内」「松平伊豆守の奥」「久世出雲守の内」「太田駿河守の内」、子女として、「松平甲斐守の子息」「土岐出羽守(土岐頼清)の娘」などの記録が見えます。
 一方、町人は、「屋号」で呼ばれることが多いので、職種を分別しやすいという特徴があります。当山には、屋号の刻字された墓石も数基確認できますので、墓地内を巡って散策してみるのもいいでしょう。
 屋号から生業が想像できる事例としては、醴屋、荒物屋、石屋、芋屋、植木屋、団扇屋、扇屋、桶屋、駕籠屋、鍵屋、錺屋、鍛冶屋、金具師、金物屋、紙屑屋、紙屋、髪結、瓦師、煙管屋、桐屋、下駄屋、肴屋、左官、指物屋、仕立屋、鮓屋、大工、畳屋、煙草屋、足袋屋、道具屋、豆腐屋、鳶、問屋、鉈屋、人形屋、縫箔屋、塗師、花屋、百姓、袋物屋、仏師、蒔絵師、舛屋、百足屋、八百屋、家根屋、萬屋などがあります。
 生業は未詳であるものの屋号が固有名詞化しているものとしては、泉屋、井筒屋、亀屋、桔梗屋、菊屋、小松屋、桜屋、下村屋、台屋、玉川屋、鶴屋、中嶋屋、二文字屋、菱屋、藤屋、鮒屋、村田屋、村松屋、吉川屋、若松屋などが見えます。どのような職業だったのでしょうか。
 このほか、地名が由来になっていると思われる屋号としては、伊勢屋、温州屋、越後屋、江戸屋、近江屋、尾張屋、加賀屋、鹿島屋、上総屋、河内屋、小湊屋、相模屋、信濃屋、駿河屋、摂津屋、三浦屋、三河屋、武蔵屋、大和屋などが確認されます。
 次に、檀徒の住処について江戸時代に限定して整理すると、現在の台東区に括られる旧町名として、浅草、安倍川町、池之端、上野町、御徒町、金杉、蔵前、坂本、山谷、下谷、箪笥町、長者町、鳥越、根岸、御切手町、三ノ輪、山崎町、谷中、吉原などが見えます。また文京区では、小石川、駒込、天神、根津、本郷、湯島、荒川区では、小塚原、千住、日暮里、三河島、墨田区では本所、両国、千代田区では糀町、外神田、三河町、江東区では深川、中央区では蛎殻町、神田、京橋、石町、小伝馬町、八丁堀、新宿区では牛込、港区では芝、田町などなど、御府外・下町を中心に城北・城東地区に住居を構えていた檀信徒が多いことが読み取れます。池波正太郎の時代小説でも馴染みの地名といったところでしょうか。
 このほかにも、過去帳には、供養・埋葬された方々の死因についても記録されている例があります。ただし、死因については、病死・餓死・事故死の記載は少ないようです。
 老衰で亡くなられたと思われる例としては、江戸時代で最も長命だった方は、安政2年(1855)歿の檀徒で、享年101才であったことが記録されています。次いで、貞享元年(1684)には90才で亡くなられた方の記録があります。現代人にも比肩する長寿の方が、当時いらしたわけです。
 一方、過去帳には、悲しい過去も記録されています。戦死・戦災死・震災死の記録としては、安政2年(1855)10月2日の大地震、大正12年(1923)9月1日の関東大震災、昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲等で非業の死を遂げられた方が確認され、特に戦災・震災物故者に関しては命日が事件当日に集中していることから類推されます。記録は少ないのですが、太平洋戦争下の戦地にて戦死された方の記録も残されています。
 このほかにも、行方不明者については行方不明となった日が命日として記録されています。
 また、法号(戒名)には水子・嬰子・孩子・童子を授けられた霊位が多く、時代が遡るほど早産・死産・流産・夭逝の幼子(特に男児)が多いことが読み取れます。
 更に、寺には、無縁仏の供養も数多くなされたようで、大正期までの300年間で供養された7400霊のうち2%に相当する約160霊(ただし絶家の無縁を除く)が認められます。驚いたことに、これら無縁仏にも法号が授けられた事実が数多く散見され、歴代住職による供養がなされていることを読み取ることができます。日蓮宗の僧侶たちが、名も知らぬ者たちの生きた証を認め、その人生の最期を確りと締めくくり見届けたことは、その人を想う両親や家族たちにとって、どれほどの慰めになったことでしょう。これら過去帳の記録を辿って往事に思いを馳せることにより、我々は、当時を生きた人々を偲ぶことができるわけです。

(文責 高森大乗)

旧本堂北面ポジフィルム(昭和20年代撮影)

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