資料(史料)の扱い方、概説書・研究書・学術論文の読み方、研究論文の書き方など、歴史学研究に欠かせないワザと工夫を指南する書。
歴史学研究の対象となる分野は、人文科学・社会科学・自然科学・形式化学などといった狭い分野・領域に限定されるものではなく、たとえば政治、経済、文化・芸術、社会、心理、法律、哲学、化学、物理、生物、医学、土木、工学、数学、自然、機械、産業、農業、牧畜、考古、体育、天文、海洋、気象、宇宙、環境、核エネルギーなど多岐に亘り、むしろそれらを融合させるべき学問体系であるという立場から、「総合の学問」である歴史学を学ぶことが、最終的には「人間とは何か?」「自分とは何か?」という問いかけにたどり着くものであると主張する。
また、歴史学とは歴史を対象にする「科学」であり、「科学」である以上、「科学的方法」に基づいた学術的態度が求められると言及。「科学的方法」とは、「物事を調査・整理し、新たな知見を得て、その正しさを立証していくプロセス」で、人文社会科学の場合は、対象を観察する→考察する→考察した結果を表現する、というプロセスをとる。このプロセスが独りよがりにならず、他者も理解・合意できるようにするために、①論理整合性、②事実立脚性、③客観性が要求されると指摘(67頁以降)。
いま、①から③の内容を具体的に示せば以下の通りとなる。
①論理整合性
人文社会科学では、「文献」「資料」が基となる。その文献や資料を扱う原則が「文献批判」であり、これこそが、人文社会科学が「科学」である一つの要因となっている。正しく文献批判を行い、資料の論理性と整合性をはかることで、他者に対する説得性と合理性をもたせることができる。玉石混淆の文献を検証せずに用いると、文献間の整合性が図れず、論理が破綻する。そのようなことでは、説得力がない。
②事実立脚性
人文社会科学では、自己の主張が文献や資料に基づいた事実に立脚していなければならない。
③主観的客観性
人文社会科学では、文献・資料に基づいた認識や解釈は、ともにそれらを語る側の主観が常に入り込まざるをえない。したがって所詮は、語る者の独りよがりにすぎないという批判がなされることもある。しかしながら、歴史認識は「現在」を生きる人間の「過去」へのアプローチであり、繰り返し問いかけ、読み直すものである。つまり、その時々の「現在」を生きる人間の「特定の主観的関心」からしか接近できない。このように、人文社会科学における「客観性」とは、語る側の「主観」を必然的に含みこんだものであり、これを「主観的客観性」と呼ぶ。
かつて、人文社会科学は、自然科学・応用科学に対して「役に立たない」と評価されたことがある。筆者は、これに対して、吉見俊哉氏の主張(『「文系学部廃止」の衝撃』)を引いて反論。「役に立つ」とは二つの次元があり、一つは目的がすでに設定されていてそれを実現するための方法を見つける「目的遂行型」、二つめは、価値や目的自体を作り出す「価値創造型」であり、前者は理系の得意分野であるが、目的や価値軸そのものが変化したときに役に立たなくなる可能性がある。一方で後者は、「価値の軸を多元的に捉える視座」をもった「知」であり、主に文系の得意分野であるとし、更に加えて以下のように主張する。
【以下、本文より取意引用】
人文社会科学は「価値の軸」を作り出すことに寄与するという性格をもっている。そのためには、「価値の軸」を現在ある姿にとらわれるだけの学問では、別の「価値」を生み出すことはできない。歴史学が作り出す「価値」「創造性」はこの点に深くかかわっている。歴史学は、「現在」の自分を通じて、「過去」の事柄を認識する学問である。そして、「過去」「現在」と区分して、「未来」を認識する。この「未来」は、「過去」「現在」に関連づけられているが、同時に、固定的なものではなく、変化するものである。歴史学は、このような時間認識をもっている。歴史学は、このような時間認識のうえに立ち、「過去」「現在」「未来」を区分して、それぞれ異なったものとして認識する。また、対象とする地域も世界中に広がっている。
このような時間・空間の認識から、歴史学は、それぞれの時期・地域の「価値」の多様性を明らかにする。とくに、現在の価値と過去のそれとを比較し、その変化を跡づけることができる。そして、それが結果として、現在と異なる新しい価値の創造へとつながっていくこととなるのである。この意味で、歴史学は、人文社会科学のなかでも、過去や未来へのリーチの長さから最も広いスパンをもった学問と言えるのではないだろうか(71~72頁)。