新発見「佐渡始顕本尊」臨写本~『本満寺宝物目録』所載~

 日蓮聖人が揮毫した大曼荼羅は、新発見も含め約120幅以上が伝わると言われていますが、中でも『如来滅後五五百歳始観心本尊抄(観心本尊抄)』述作後、佐渡の地で初めて図顕したと伝えられる大曼荼羅は、「佐渡始顕本尊」と呼ばれています。これは、「三大秘法」のうち「題目」と「本尊」の法門を詳論した『観心本尊抄』執筆の約2ヶ月半後の文永10年(1273)7月8日に染筆され、絹本(紙本と異なり絹地に揮毫したもの)に仕立てられた大曼荼羅で、真筆は身延山久遠寺に曾て存在(身延曾存)したと言われますが、遺憾ながら、明治8年(1875)の身延山の大火で焼失してしまいました。
 本図の伝来は、これまで身延山久遠寺33世遠沾院日亨(1646~1721)の臨写による写本が伝わり、その全容をうかがい知ることができましたが、この度、立正大学日蓮教学研究所編『本満寺宝物目録』(本山本満寺、2010年)に、それより以前の身延山久遠寺21世寂照院日乾(1560~1635)による臨写本が公開され、大きな反響を呼んでいます。
 ただし、「佐渡始顕本尊」が実在したか否かには、以下の点において、未だ検討の余地がありますので、これら写本の存在だけでは、その存否に関して断定的なことは何一つ言えません。以下に問題点を挙げていきます。
(1)佐渡始顕を行った事実について、現存する真蹟遺文(著作・書状)等の中で日蓮聖人自身は何一つ語っていない。
(2)流謫地佐渡では、絹本を図顕できる環境にはなかったと想像される。
(3)釈迦多宝二仏はじめ42もの諸尊が勧請された大曼荼羅は、約1年後の文永11年6月染筆になる39尊勧請の絹本大曼荼羅(京都妙満寺蔵、立正安国会『御本尊集』11番本尊)まで現れず、「佐渡始顕本尊」は初期の大曼荼羅としては特異な事例と言える。
(4)「佐渡始顕本尊」の存在を記録した文献は、現時点では慶長8年(1603)の日乾による『身延山久遠寺御霊宝記録(乾師目録)』(『定遺』2746頁)までしか遡れない。乾師目録より前の室町中期の記録となる身延山12世円教院日意(1444~1519)の『大聖人御筆目録(意師目録)』(『定遺』2742頁)には確認できない。
(5)他門流に対する身延の優位性を示すために日乾写本以前に意図的に制作された可能性も否定できない。
 このように、写本「佐渡始顕本尊」の実際については、当時の政治的な思惑の中でどのような駆け引きが行われたかも踏まえながら、慎重な議論が必要となることでしょう。

寂照院日乾(じゃくしょういんにちけん)写本「佐渡始顕本尊」。立正大学日蓮教学研究所編『本満寺宝物目録』(本山本満寺、2010年)

遠沾院日亨(おんでんいんにちこう)写本「佐渡始顕本尊」。日蓮聖人と法華文化展実行委員会編『日蓮聖人と法華文化』(新潟県立歴史博物館・山梨県立博物館、2021年)

 なお、寂照院日乾の写本遺文については、書誌学の観点からも他の写本遺文よりも信憑性が高いと評価されています。例えば、同じ身延曾存の『開目抄』について、日乾は、京都本満寺より身延山久遠寺に晋山した時期に、京都本満寺日守の筆によると伝えられる写本『開目抄』(1593年)と、身延山久遠寺蔵の真蹟『開目抄』とを対校し、日乾校合の写本(真蹟対校本)『開目抄』(1604年、京都本満寺蔵)を制作しています。
 日乾が実際に真蹟に臨んで日守写本の誤写を校合・訂正したところから、その信憑性の高さが評価されており、今日、『開目抄』の全容は、こうした貴重な史料によって復元されているのです。
 近年、日蓮聖人の摂受折伏論争の火種となった「常不軽品のごとし」の字句の存否についても、最古の文献となる祖滅134年成立の日存写本(尼崎本興寺蔵)には「常不軽品のごとし」の文はなく、また現存最古の写本録内御書といわれる祖滅161年成立の平賀本録内御書(平賀本土寺蔵)には「如常不軽品イ」との記述があり(「イ」とは、異本または異筆の意味か)、祖滅322年成立の日乾写本『開目抄』には「御筆ニ無シ」と筆録されています。

日乾真蹟対校写本『開目抄』「常不軽品ノゴトシ」

 従来説に切り込んだ日蓮聖人の三大秘法および摂受折伏観については、コチラもご参照ください。

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