みなさんこんばんは。今日は祇園祭(ぎおんさま)の「お下り」でした。
川棚町は朝からかなりひどい雨で、正午ごろまで「今日は行列無しでトラックでお神輿(おみこし)を運ばなければならないか?」と非常に心配しましたが、不思議なことに午後1時過ぎごろから雨が止み、「お下り」出発の午後2時半にはすっかり雨が上がり、予定通りに「お下り」を奉行することが出来ました。
仏祖三宝、諸天善神、殊には「祇園牛頭天王(ぎおんごずてんのう)」のご加護、加被力(かびりき・仏、菩薩、神が慈悲の力を加えて衆生を助け、願いを叶えること)をひしひしと感じる「お下り」になりました。
祇園牛頭天王は、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」と平家物語の有名な出だしにありますが、インドの祇園精舎(須達しゅだつ長者がお釈迦様とそのお弟子に寄進した寺院)の守護神でインド伝来の「仏教の神様」です。
「祇園祭」というと京都の八坂神社が思い浮かぶ方が多いと思いますが、実は「八坂神社」という名称は明治政府が出した「神仏分離令(1868明治1年3月)」以後改められた名称でそれ以前は「祇園社(ぎおんしゃ)」、「祇園感神院(ぎおんかんじんいん)」と呼ばれていた「寺院」だったのです。(当初は興福寺末寺、後に延暦寺が末寺化し、以降天台宗でした。)今鳥居に掛かっている「八坂神社」という扁額も、神仏分離令以前は青蓮院尊純法親王の「感神院」の扁額が掛かっていました。
数十年前、川棚町にある「八幡神社」改築の折に「常在寺開山(第1世)性善院日清上人の棟札」が見つかりました。350年前常在寺の開山上人が、棟札に「お題目、日蓮宗のご本尊を書かれ」、そして上棟式で「法華経」「お題目」を言上されたのです。僧侶が「社やしろ」でお経を読むというのは実は当たり前のことでした。
先ほど「社やしろ」と書きましたが、「〜神社」と称するようになったのも近代になってからのことで、「〜神社」という名称が使われるようになったのは、明治政府が「社やしろ」を国家管理の施設にして「神社」と改めてからなのです。「〜八幡宮」『〜八幡大菩薩」といえばピン!と来る方もいらっしゃるでしょう。
川棚八幡神社も明治3年に「改称」されたということです。
神仏分離令により廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動が起こり、各地の寺院や仏具等の破壊が行われていくことになるのですが、話せばあまりにも長くなるのでこのあたりの話を詳しく知りたい方はどうぞ、安丸良夫著「神々の明治維新」神仏分離と廃仏毀釈(岩波新書)をお読み下さい。(amazonにリンクしています)
川棚町常在寺の「祇園祭」は享保4年(1719)に「お下り」が始まったとの記録があるそうです。あと6年でちょうど300年になります。今日の行列の参加人数は300〜400人。行列の長さは150〜200メートルくらいでしょうか。(30~40年前まではもっともっと行列の参加人数も多く、行列ももっともっと長かったといいます。)ご信者さん達もうちわ太鼓を叩きながら「お題目」を唱えて参列して下さいます。
「お下り」の行列の先頭の方に「鳥毛(とりげ)」振りと呼ばれる人達がいます。鳥毛振り達はこういう風に歌いながら、踊りながら歩いて行きます。
「♪祇園牛頭天王は 悪病、悪魔を退治しに これからお下りなさるのよ
それに付いたる挟み箱(はさんばこ) 挟み箱(はさんばこ)からやりまーしょかー えーどすこい どすこい」
沿道の人々は「祇園さまのお神輿」を待ち、神輿が来ると、無病息災、疫病退散、家内安全、身体健全、大漁満足等を祈りながら神輿の下をくぐります。私はここに300年続く常在寺の「祇園祭(ぎおんさま)」の原点を垣間見るような気がします。「健康でありたい」という人々の願いが根底に流れているのです。
※7/24 「神社」という名称、「八坂神社」、「川棚八幡さま」についての部分を少し詳しく加筆しました。
あすの「お上り」編につづく 泰通記