今日は本堂での葬儀がありました。

この記事は最終更新日から1年以上経過しています。
記事の内容やリンク先については現在と状況が異なる場合がありますのでご注意ください。

みなさんこんにちは。今日の川棚町は曇り空、ときどき晴れ、そして時折小雨がぱらつく天気でとても蒸し暑かったです。
今日の午前中、本堂での葬儀が1件ありました。身内の方々だけでの葬儀ということで葬儀社の祭壇は一切なく、常在寺にある小さな祭壇と、お花のスタンドが4本。小さな祭壇ですがお位牌、お写真、お供物、ご霊膳等足りない物は何もありません。
心を込めてお供物等の飾り付けをして、心を込めてお経を読み、お題目を唱えました。
(葬儀社が全く入らなかったのではなく、霊柩車の手配、昨日の会館の少人数でのお通夜等は葬儀社で行いました。)
本堂での葬儀はほんのたまにしかありませんがいつも思うことがあります。
葬儀を執り行う私ども僧侶の心持ちが、葬儀会館で行う葬儀とは何か違うように感じられるのです。勿論どちらで行うときも「心を込めて一生懸命」は変わりません。これは本当です。
ただ、常在寺の本堂では毎日毎日朝早くから朝勤をし、夕勤をし、日々法華経お題目が唱えられています。これが常在寺の場合その歴史の分だけ、つまり350年間ずっと行われてきているのです。私は本堂に入るだけで「何か力のような物」を感じます。
お灯明をつけ、お線香を上げ、宗祖のご尊像を拝するときにも「身の引き締まる思い」がします。
本堂での葬儀が「会館とは何か違う」感じがするのは当然かもしれません。
でも会館でのお通夜、葬儀はとても便利で至れり尽くせりのサービスがあります。多分あまり何も考えずに、滞りなく立派な葬儀を執り行うことができるでしょう。「本堂での葬儀が絶対に良い」とは決して言うことはできません。選ぶのは亡くなった方の生前の意思ですし、喪家の考え、また会葬者の利便性も考えなければならないでしょう。会館での葬儀が悪い訳では決してありません。
、、、、、、というようなことを本堂での葬儀の度にぐるぐると考えてしまいます。
また近年急減した自宅での葬儀(もうほとんど皆無といってよい)はご遺族にとって(また亡くなられた方にとって)何か違う思いが出てくるのではないかと思います。
そう言えばついこの間「どうしても自宅で葬儀をしたい。」と言われ、葬儀社、またご近所の再三の勧めにもかかわらず自宅葬を選ばれたご家庭がありました。こちらが見る限りご近所の方々、会葬者は大変だったようですし、私共も僧侶三人で七条袈裟をつけて葬儀を行いますので着替える場所もなく、とても大変でしたがご遺族は「とても嬉しかった。やっぱり自宅でやって良かった。(今度はおじいちゃんの時も!)」とおっしゃっていましたので「良かった!」と思いました。
「まさに知るべし、この処は即ちこれ道場なり。」
法華経には〈真に思いがあれば「そこが道場である」〉と説かれています。
場所に拘るべきではないのかも知れません。ただ、いつもこんな風な思いがわき上がってくるのでここに思いのまま綴ってみました。
みなさんはどう思われますでしょうか。
泰通記

この記事は最終更新日から1年以上経過しています。
記事の内容やリンク先については現在と状況が異なる場合がありますのでご注意ください。

一覧へ