先の大震災の時、地震直前にめったに行かない仙台空港に降り立った九州在住のわたくしは、牛タンを食うか、田舎そばを食うかの選択に於いて幸運を得て、津波の難から逃れたわけですが、これを人々はさまざまに評価なさいます。
時に、日蓮宗大荒行堂から帰ってきたばかりのわたくしです。
『やはり修行のおかげでしょうねぇ。』
『何かに守られていたのでしよょうねぇ。』
てな感じの、いわば修行肯定派(?)が約90%。
逆に
『地震が発生するところにわざわざ行くなんて、百日間おまえは何を修行しとったんや』
てな修行否定派が残り10%。
運悪く被災地に居合わせ、そして運良く最悪の事態から逃れたわけですよ。
これを皆様はいかにお考えでしょうか。
わたくしはどっちでもないと思います。
わたくしがこの冬に修行しても、せんでも、同じ結果だったのではないかと。
厳しい修行をしても、死ぬ時は死ぬ。
どんなに自堕落な生活をしていても、助かる人は助かる。
そう思いませんか?
だってね、もし修行しさえすれば難を逃れられるのなら、自然災害の起きた地域の住民は、全員ダメな人で構成されていたことになる。
果たしてそんな理屈があって良いのか。
もちろん、修行のおかげでしたねとおっしゃる方々は、わたくしが無事に帰って来たことを心から喜んでくださってる人達ばかりです。
それらの言葉は、間違いなく『感謝』という、とても美しい心の泉から発せられたもので、その清浄な気持ちを否定するつもりは毛頭ございません。
でも実際、仏様はこの娑婆世界が三界の火宅であると充分承知の上で、寂然としてこの火宅から遠く離れた林野に安處なさって、いかにすれば悩める衆生を救えるのかを、とにかくひたすら考えていらっしゃる。
仏様は、思い通りに行かない世界で、苦しんだり悲しんだりと、一喜一憂を繰り返す我々衆生を哀れんで、涙を流していらっしゃるわけですよ。
今回の天災が、もし誰かの業によるものだとするなら、それは個人の業というよりも、むしろ人類全体の業。
我々が修行するというならば、それは個人の幸せを願う修行ではなく、人類全体の意識向上を目指す修行でなくてはならない。
そんなふうに思いました。