「お説教」しているのか、されているのか??

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11月19日細勝寺様で御会式があり、法要後は高座説教をさせていただく機会がありました。


今季一番の寒気が南下した寒い日でしたが、細勝寺様のお檀家様のみならず、妙國寺よりも応援のお檀家様がいらして、さらには要法寺様のお檀家様もいらしてくださっておりました。

「お説教」

というと、小言を言ったり、誰かを叱ることの様に感じますが、漢字で見るとわかりますが「教えを説く」ことです。

日蓮宗の高座説教では当然、法華経と、お題目、大聖人の教えを説くことになります。

細勝寺様での高座説教は昨年、ご住職にこちらからお願いして、機会を頂きました。

それから1年間かけて、1時間のお話しを考えます。

日常の嬉しかったこと、つらかったこと、世間を騒がすニュース。いろんなことにアンテナをはります。

しかし、いくら印象に残った話があっても、それをそのまま話したら、ただの世間話です。

それらをどのように解釈して、ご聴聞の皆様に教えを伝えるか。。

自分で「高座説教をやらせて欲しい!」とお願いしておきながら、11月に入ると寝ても覚めても高座のことを考えていたいて練習してても「この言い方で伝わるかな?」と緊張はピークです!

練習の時は誰もいない本堂で練習するのですが、、

本番はもちろん大勢の方の視線があります。

緊張もしますが、やはり人の眼差しはありがたいです。

高座は上がってしまうと、降りるまでひたすらお説教をするしかない孤独な現場だと、思うこともあります。

しかし、出迎えてくだらさる方のお題目、笑顔、うなずき。。

そのどれもが本当にありがたいものです。

お掃除をしてお迎えしてくださるお心遣い
お料理をして準備してくださる優しさ
御会式に各地から参加してくださる信仰の心

高座に上がるときは、自分一人が大勢にお説教しているようで、実はそれ以上に多くのかたに「教えを目の前に実現していただいている」

お説教されていることをひしひしと感じられました。

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