和歌と法華経

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最近、朝のお勤めの時に、法華経を詠んだ和歌をお唱えしています。
岡田行弘上人(岡山県布教師会会長 妙興寺ご住職)の書かれた『妙法蓮華経和讃解説本』の中から一首ずつお唱えすると共にその解説を読んでいます。
『妙法蓮華経和讃』は、北川前肇上人(立正大学教授)が法華経について古来詠まれた和歌の中から各品一首、合計二十八首を選ばれたものです。
岡田上人は岡山県和讃会の求めに応じて、和讃会の練習にあわせてその解説をされました。それを一冊にまとめて出版されたのが『妙法蓮華経和讃解説本』です。
実にコンパクトに和歌の意味と法華経の章の解説がなされています。
因みに本日お唱えした和歌とその解説は以下のとおりです。
二十、常不軽菩薩品
値(あい)がたき 法(のり)を弘めし聖(ひじり)こそ うち見し人も 導かれけれ
(出会うのが難しい法を広める聖(常不軽菩薩)によってこそ、〔聖〕を打ち見た人々も導かれるのです。)
                                   覚雅法師(?)『金葉和歌集』六三八番
 この品は、常不軽という菩薩の物語で、その内容は次のようなものです。
 「はるか昔、威音王如来という仏が現われ、教えを説き、入滅されました。その後も次々と同じ名前の仏が続き、最後の威音王如来が入滅してからは、正法の時代が終わりました。そして、像法の時代(=教えの形(=像)は存在するが、悟りを得るものがいない時代)になりました。
 この時、修行僧や信者たちは、思い上がった心を持って、仏法をないがしろにしていました。その時、常不軽が現われて、人々に向かって合掌礼拝し、次のように呼びかけます。
 我れ深く汝等(なんだち)を敬う 敢えて軽慢(きょうまん)せず。所以(ゆえ)は何(いか)ん。汝等は皆菩薩の道を行じて、当に作佛することを得(う)べければなり。
 (私はあなた方を尊敬します。決して軽蔑しません。なぜならあなた方は仏へのみちをおこなって、かならず仏に成られるからです)
 すると呼びかけられた人々は、馬鹿なことを言うな、と怒って、常不軽に石を投げたり、木の棒で打ちかかったりします。かれは離れたところに逃げてまた同じことを繰り返して礼拝します。このような行いによって彼は、「常に軽んじない」と名付けられました。
 彼はこの礼拝行だけを終生おこないました。臨終に際し、初めて法華経を聴き、六根が清浄となり、寿命が延びて(増益寿命)さらに法華経を説き広めました。」
 最後に仏は次のように過去の常不軽菩薩と現在の結びつきを明らかにします。
 「かの時の不軽は、すなわちわが身これなり」
 「すべての人は仏になる」という法華経の教えを実現するための修行、その基本が常不軽菩薩の《但行礼拝=たんぎょうらいはい》なのです。
見開き2ページの中に、『常不軽菩薩品第二十』の内容が実に見事にまとまっています。
まさに簡にして要を得た解説です。
因みに次の和歌は法華経のどの品を詠んだものか分かりますか?
「大空に 宝の塔のあらわれて 法(のり)のためにぞ 座をば分けける」
                            赤染衛門『赤染衛門集』
「吹きかえす 鷲の山風無かりせば 衣の裏の 珠を見ましや」
                       僧正静円『金葉和歌集』
「亡き身ぞと 思いし親のながらえて 今も有る世と 聞くぞうれしき」
                             松永貞徳『逍遙集』

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