葬儀の大切さ追善供養のすすめ《回向功徳抄に見る追善供養の大切さ》

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日蓮大聖人は、『回向功徳抄』で次のようにお釈迦様の教えを伝えて下さっています。

「涅槃経云、死人に閻魔王勘て四十九の釘をうつ。先目に二、耳に二、舌に六、胸に十八、腹に六、足に十五打也。各各長一尺也取意。
而に娑婆に孝子有て、彼追善の為に僧を請ぜんとて人をはしらしむる時、閻魔王宮に此事知て、先足に打たる十五の釘をぬく。
其故は、仏事の為に僧を請ずるは功徳の初なる間、足の釘を抜。爰に聖霊の足自在也。
さて僧来て仏を造り、御経を書時、腹の六の釘を抜也。次に仏を作り開眼の時、胸の十八の釘をば抜。
さて仏を造奉り、三身の功徳を読上奉て、生身の仏になし奉り、冥途の聖霊の為に説法し給と読上候時、聖霊の耳に打て候二の釘を抜也。
此仏を見上まいらせてをがむ時に、眼に二打たる釘を抜候也。
娑婆にて聖霊の為に題目を声をあげて唱へ候時、我志す聖霊も唱る間、舌に六打て候釘を抜候也。
而に加様に孝子有て迹を訪ば、閻浮提に仏事をなすを閻魔法王も本より権者の化現なれば是を知て罪人に打たる釘を抜免じて候也。
後生を訪ふ孝子なくば何の世に誰か抜えさせ候べきぞ。其上わづかのをどろ(茨棘)のとげのたちて候だに忍び難く候べし。況や一尺の釘一に候とも悲しかるべし。
まして四十九まで五尺の身にたてゝは何とうごき候べきぞ。聞にきもをけし、見に悲かるべし。其を我も人も此道理を知ず。
父母兄弟の死して候時、初七日と云事をも知ず。まして四十九日百箇日と云事をも、一周忌と云事をも第三年と云事をも知ず。訪ざらん志の程浅猿かるべし。
聖霊の苦患をたすけずんば不孝の罪深し。悪霊と成てさまたげを成し候也。
良郭・阿用子二人同く死候て閻魔の庁に参りたり。同業なれば黒縄地獄へ堕すべしと沙汰ある。
爾時に小疾鬼娑婆へ行て追善の様を見て参れと仰せければ、刹那の程に冥途より来て見に、良郭は孝子ありて作善をいとなみ、僧を請じ、仏を造り、経を書、大乗妙典を読誦して訪事念比也。
故に閻魔法王に申す。浄頗梨の鏡を取出し御覧あれば申に違はず。一生涯の間造る処の罪業を、皆此功徳に懸合て見れば、罪業は軽し善根のふだ(札)は重し。
真善妙有の功力なるが故に、衆罪は霜露の如く忽に罪障消滅して、漁利天上の果報を得て、威徳の天人と成て行すべしと下知せられたり。
阿用子我身の事はいかにとむねに当て思ふ処に、閻魔法王仰せらるゝ様は、阿用子の孝子はなにと有ぞと御尋あれば、されば候。娑婆に訪べき孝子一人もこれ無候。
縦ひ候と申とも善根をなす事も候はず。まして僧を請じ、仏を造り、経を書、大乗妙典を讃歎する事候はず。
一分の善根も無由申ければ、汝があやまりにやとて、頗梨鏡召寄て彼が罪障を浮べて披見し給へば、げに訪事もなし。
縦ひ兄弟あれども作善もなし。初七日とも知らず四十九日までも仏事なし。閻魔法王不便に思召せども、自業自得果の道理背難ければ、黒縄地獄へつかはす。
爾時阿用子申さく、我娑婆にありし時、馬車財宝も多かりしを、他人はゆづらざりしに、何に妻子も兄弟も訪ざるらんと、天に叫び地を叩ども更に助る者なし。
三七日のさよ(小夜)なかに、宗帝王の筆を染て阿用子が姓名を委く注し、四七日の明ぼのに、倶生神にもたせつゝ五官王に引渡しけり。彼札にまかせて黒縄地獄へ向。
彼地獄のありさまは縦横一万由句也。
獄卒罪人を掎て熱鉄地に臥て、熱鉄の縄を以てよこさまに身にすみを打、熱鉄の斧を持て縄にしたがひてきりわり、或はのこぎりを以て其身をひき、
或は刀を持て其身をさききる事百千段段也。五体身分処処に散在せり。或は獄卒罪人をとらへて、あつき鉄の縄を持て其身を絞絡す。縄身肉をとをり、骨にいたる事限なし。
骨微塵にくだけ破るゝなり。或は鉄の山の上に鉄の幡ほこを立、幡ほこの端に鉄の縄をはり、下に熱鉄の釜あり。
其罪人に鉄の山をせをわせて、縄の上を行しむるに、遥の鉄のかまへをち入事、大豆の如くなり。
かくの如く苦をうくる事、人間の一百年を以て漁利天の一日一夜として、其寿一千歳也。漁利天の一千歳の寿を一日一夜として此地獄の苦一千歳也。
殺生偸盜の者、此黒縄地獄におつるなり。
然ば良郭は迹に孝子有て訪ば、苦患をのがれて漁利天へ生れたり。阿用子は孝子なく迹訪ことなければ、一千歳の間、無量の苦を五尺の身に受て悲み極りなし。
昔を以て今を思ふに、孝子なき人かくの如くならんか。又訪事なくは、何の世にか浮ぶべきや。
我父母の物をゆづられながら、死人なれば何事のあるべきと思て、後生を訪ざれば、悪霊と成り、子子孫孫にたゝり(祟)をなすと涅槃経と申経に見えたり。
他人の訪ぬよりも、親類財を与へられて彼苦を訪ざらん志の程うたてかるべし。悲むべし悲むべし、哀むべし哀むべし。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。
七月二十二日   日蓮  花押
 侍従殿」

《大意》
涅槃経には、人が死んだら先ず閻魔様に49本の釘を打たれると説かれている。目に2本、耳に2本、舌に6本、胸に18本、腹に6本、足に15本。
この時死者が生きていた世界、つまり娑婆世界に孝行者の子供がいて、先ず死者のために人を走らせて急いで僧侶を招請して供養しようとしていることを閻魔様がお知りになると、先ず死者の足に打たれた15本の釘をお抜きになる。
何故そのようにするかというと仏事のために僧侶を立てて供養するという事は、供養の最初であるから僧侶の下に走って伝えることが先ず供養に通じるという意味で足の釘が抜かれる。そうすると精霊の足が先ず自由に解放されるのである。
さて僧侶が来て仏像を造り、御経を書いた時、腹の6本の釘を抜く。次に仏を作り開眼を終えると、胸の18本の釘を抜く。
こうして仏像に仏様の功徳を読み入れた時、仏像は精霊のために随身仏となって説法をする。その説法を聞くために耳に打たれた2本の釘を抜く。
更にこの仏を拝見して拝む時に目に打たれた2本の釘が抜かれる。
娑婆において精霊のためにお題目を声を上げて唱えるとき、志す精霊も同じように唱えるならば、舌に打たれた6本の釘は抜かれるのだ。
このように孝行者の遺族が居て、迹門を知ろうとし、娑婆世界に仏事を施そうとしていることを閻魔様がお知りになれば、閻魔様は基もと仏様の化身であるのだからお許しを出して全ての釘を抜いて下さるのだ。
しかし、孝行者の遺族が無く供養を怠るならばどうして、一体誰がこの釘を抜いてくれるというのだ。その上ほんの小さなイバラのトゲであっても刺さっていると堪えられない痛みであるのに一尺の釘1本も抜かれないとは悲しいことである。
それが而も四十九日までの長い間五尺の身に打ち付けられ続けているのだからどうやって動くことが出来るというのだ。耳の聞こえないし、目も見えないのだから悲しいことだ。なのにこの事を自分も他人も知らずにいるのだ。
父母兄弟が亡くなった時、初七日という事をも知ず。まして四十九日百箇日という事をも、一周忌という事をも三回忌という事をも知ず。これを勤めようとしないのは、浅知恵の猿のようなものだ。
死者の犯した生前の罪を少しでも助けようとしないのは、不幸者の罪と言って罪深いことである。死者は返って悪霊となって更に幸をつくそうとしても妨げとなってしまう。
良郭・阿用子の二人は同じときに死んで閻魔の庁に参った。二人共に同じだけの罪を持っていたので、閻魔様は二人とも黒縄地獄に落とすよう判決した。閻魔大王は小疾鬼に娑婆へ行て追善の様を見て参れと申しつけた。小疾鬼は刹那の間にに冥途より娑婆を見て帰ってきた。すると良郭には孝子があって葬式をするため、僧をたのみ、仏を造り、経を書き、大乗妙典を読誦して追善供養を勤めていた。
その様子を閻魔法王様に報告した。「浄頗梨の鏡を取出しそこに良郭を映し御覧になれば解ります。良郭が一生涯の間造ってきた罪業と、息子達が贈る追善供養の功徳を懸け合わせて見れば、罪業は軽いようです。善根の方が重く多いようです。真善である妙法の功徳がその中に含まれているため、良郭の罪は霜露のように忽に罪障消滅して、漁利天上の果報を得て、威徳の天人と成て仏道を行じます。」閻魔様に申し上げた。
阿用子は、自分の方はどうなんだと胸に手を当てて考えていたところ、閻魔法王が阿用子にお尋ねになった。「阿用子よ、お前の方はどうなのだ?孝行者が追善をしてくれるのか?」
阿用子は「それが、居ません。娑婆に追善をしてくれる孝行者など一人もおりません。たとえ居たとしても善根供養をすることも知らないし、まして僧侶をたのむことも、仏を作ることも、経を書くことも大乗妙典を讃歎することなど知りもしません。」と言った。
閻魔大王様は「一分の善根も無いことをお前が申すなら、お前が間違っていてもいけないので、頗梨鏡を以て調べてみよう。」と言った。そうして阿用子の罪障を鏡で映し確認すると、娑婆では本当に弔いの法事などしても居なかった。
たとえ兄弟がいても追善供養をしてもくれない。今日は初七日だということも知らない。四十九日までもいっこうも仏事をしようとしない。閻魔法王は不便に思ってくださっても、自業自得果の道理で仕方ないので、黒縄地獄へ落とすしかなかった。
その時阿用子はこう言った。自分が娑婆に生きていた時、馬車財宝も多く持っており、他人にはゆづらないで家の者に良くしてきたつもりなのに、どうして妻子も兄弟も供養の一つもしてくれないのだと、天に叫び地を叩いても更に助る者は無かった。
三七日のさよ(小夜)に、宗帝王の筆が阿用子の姓名を黒縄地獄行きの札にその名を書き入れ、四七日の明ぼのに、倶生神にその札をもたせつゝ五官王に引渡した。その札の通り阿用子は黒縄地獄へ向わされた。
地獄のありさまは縦横一万由旬であった。
獄卒罪人を引いて熱鉄地に臥て、熱鉄の縄を以て身体を縛り付け、熱鉄の斧を持て縄に沿って身体を切り割り、或はのこぎりを以て其身をひき斬り、或は刀を持て其身をさききる事百千段。手足頭胴体切れ切れになってに散在する。或は獄卒罪人を捕らえて、熱い鉄の縄を持て縛り吊される。縄は身肉を貫通して、骨にいたる事は限りなく続き終わることはない。
骨は微塵にくだけ散る。或時には鉄の山の上に鉄の幡ほこを立てて、幡ほこの端に鉄の縄をはり、下に熱鉄の釜がある。そうして其罪人に鉄の山を背負わせて、縄の上を歩かせる、すると罪人は遙か下の鉄の釜へ墜ち居る様は、まるで大豆のようである。
このように罪を償う時間それぞれ、人間の一百年を以て漁利天の一日一夜として、その時間は一千年間である。漁利天の一千年の年月を一日一夜として此地獄の苦は一千年間である。
生前殺生したり偸盜の罪を作った者は、この黒縄地獄に墜ちるのである。
一方の良郭は娑婆に孝行息子が有て弔いをしてくれたので、苦患を逃れて漁利天へ生れた。阿用子は追善をされることなく罪も重なり、一千年の間、無量の苦を五尺の身に受て悲みの極みは計り知れない。
昔から今に至るまで、孝行者の人はこのようになるであろうか。又、追善供養のないことは、どの時代にも当てはまることであろう。
自分は死んでいった父母の物を譲り受けて生活しているのに、死人になって此処にいないのならば何もばれたりしないと考えで追善供養を怠れば、死んでいった父母であっても悪霊と成り、子子孫孫にたゝり(祟)を起こすと涅槃経というお経に説かれている。
赤の他人が供養をしたとしても、親類が亡き人から財を与へられて生きているのにその苦しみを測って苦を取り除こうと供養をしてくれないのは辛く悲しいことである。悲むのだ悲むのだ、哀むのだ哀むのだ。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。
七月二十二日   日蓮  花押
 侍従殿
 
現代は、直葬といって何も供養を伴わず焼き捨ての儀式を行う人が増えているそうです。火葬場は供養を伴わない場合は単純に焼却場です。直葬と呼ばれる行為は決して葬儀とはなりません。日蓮聖人のこの御文章は、ご本人の意見ではなく釈尊のお説きになられた教えを解説したものですから、そのことを承知しなければならないと思います。

自分たちに永年影響を及ぼしてくれた先人達。その恩に報いる為に最後の瞬間を謹んで尊敬の念を以て送ってあげることの大切さ。

人間であるために。”浅知恵の猿”にならないようにしたいものです。

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