功徳に違いはあるのか?

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我々僧侶が、よく檀信徒より聞く言葉のひとつに「お上人さんのありがたいお題目」とか、「我々の唱えるお題目よりお上人さんの唱えるお題目の方が」とか、比べてしまう方がよくいらっしゃいます。お題目やお経の功徳は唱える人によって違ってくるのでしょうか。
また今日は、節分2月3日ですが、一週間後2月10日には、日蓮宗の大荒行堂が成満の日を迎え多くの修行僧たちが百日の荒行に耐え出行されます。この修行僧たちの唱えるお題目と我々の唱えるお題目は違う功徳があるのでしょうか?

日蓮大聖人は建治2年に書かれた松野殿御返事という御文章の中で次のように仰っています。

『聖人の唱えさせ給う題目の功徳と、我らの唱え申す題目の功徳と、如何ほどの多少候うべきやと云々。更に勝劣あるべからず候う。その故は、愚者の持ちたる金も智者の持ちたる金も、愚者の灯せる火も智者の灯せる火も、その差別なきなり。但しこの経の心に背いて唱えばその差別あるべきなり。』

愚者が持つお金も智者の持つお金もお金の価値に違いはない。灯りだって、誰が灯してもその明るさは同じものなのだ。お題目の功徳も同じように、誰が唱えても同じ功徳が具わっているのだ。とおっしゃっています。

問題はそのあと。

お題目の持つ意味、お釈迦様の心に沿う気持ちがないと、功徳は現れないのです。

お釈迦様の心に沿うお題目とは、一体どういう物なのでしょうか。

それは、健康になりたいとか長生きしたいとか、何々ありたいとか言う個人の欲を叶えることでは決してありません。

お坊さんたちの唱えるお題目は、人々の為に唱えるお題目。決して自分のために唱えるお題目では無いところがありがたいのです。皆様もこのお釈迦様の心を理解しお題目をお唱えしましょう。
南無妙法蓮華経

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