本山妙傳寺の晋山式

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6月24日、本山 妙傳寺

 

晋山式がありました!

妙傳寺は、護国寺本光院の本山でもありますウインク

新たに第85世として

愛知県名古屋市・大光寺から

村瀬日隆猊下が就任なされましたキラキラアップ

全国から多くの来賓がご臨席賜り

盛大かつ厳粛に執り行われました(。-人-。)

 

 

ちなみに本光院は式衆の控え室でしたよ上差し

不肖・私は妙傳寺の執事を拝命しておりますので、

これからも本山のため、貫首さまのために

尽くして参りたく存じます(。-人-。)

 

妙傳寺は円教院日意聖人によって文明九年(1477)に開創された日蓮宗の本山であり、京都八本山の一つであります。
 はじめ京都一条尻切屋町に建立され、身延より宗祖日蓮大聖人の御真骨を分骨奉安し、同時に身延七面山に勧請されている七面天女と同木同体の霊体を安置しました。ゆえに「西身延」と称され、関西以西の日蓮宗信者はこぞって参拝したと伝えられています。
 しかし天文五年(1536)に起こった天文法難により、全山悉く灰燼に帰してしまいます。天文十年(1541)に新たに西洞院に再興し寺観を整えたのですが、天正十九年(1591)豊臣秀吉の命により京極二条の地に移転を命じられます。時の貫首、第六世・慈眼院日恵上人は逆境をものとせず布教活動に邁進され、前にも増して山門は興隆したと伝えられています。この時、一条家・四条家の菩提寺となり、日恵上人は妙傳寺の中興の祖と仰がれています。
 第八世には有名な心性院日遠上人が猊座に就かれ、第十四世には勇師法縁の縁祖である法性院日勇上人が歴世となられます。日勇上人は学徳高く、後水尾天皇の皇后・東福門院より金紋袈裟を賜ります。また、山科の地に護国寺を開創し、山科檀林を開かれました。第十六世には寂遠院日通上人が歴世に就かれる等、隆盛を極めます。
 ところが、宝永五年(1708)に、宝永の大火が起こり、全山再び灰燼に帰してしまいます。第二十九世・住心院日義上人は、現在の二条川端に再興し、第三十五世・了遠院日勤上人は、説法一万座に及び、浄財を勧募し現在の本堂を建立されました。
 以来、開山日意上人より五百数十年の間、身延門流の直系、京都の触頭。本山としての威容を
保ち、勇師法縁の縁頭寺院として現在にいたっています。尚、歴代の廟は東山区鳥辺山通妙寺にあり、勇師法縁の縁祖である法性院日勇上人、並びに寂遠院日通上人の廟は山科護国寺にあります。

 
     

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