「欲望」の根幹は「自我」であり、「自我」には「生存欲」・「生殖欲」・「自由欲」があるという話を前回はしました。
そして、実は欲望は喜びよりも苦しみを生み出すことの方が多いということでした。
私たちが欲望に苦しむ姿とは、例えば、小さい子どもがガラス瓶の中からアメ玉を取ろうとして、手が出なくなり、泣いている状況と同じです。ガラス瓶の中で飴玉を握っているからガラス瓶から手が抜けないのであって、アメ玉を離せばガラス瓶から手は抜けるのです。しかし、子どもはそうしません。大人が「アメ玉を放しなさい」と言っても決して離すことはありません。
人間の苦しみもこれを同じで「放したくないから苦しむ」のです。
このように欲望に苦しんでいるうちにやがて「死」がやってきます。
かりに、生存欲・生殖欲・自由欲が最大限にみたされ、幸福の連続であったとしても、「死」はそれを無にしてしまいます。
私たちは時間的にも空間的にも非常に限られた存在です。
だから、永遠なもの・無限なもの・絶対的なものを求めるのです。
パワースポットブームというものがありますが、大いなる自然を感じられる場所を求めるのはまさにこの心です。
青い大空を見ながら風を感じた時、大空にはばたくツバメを見た時、渓流の水の音を聞いた時、
山頂から日の出を見た時、海に沈む夕日を見た時・・・・
大いなる自然を感じた時、自らより大きい存在に出会うと、私たちはそれに溶け込みたいと感じるのです。
この永遠・無限・絶対なるものを求める心は「自我」を永遠にするものではありません。
「自我」が永遠でも無限でも絶対でもないことであるという「反省」により、
永遠なものは何か、無限なものは何か、絶対的なものは何かと「自我」以上のものを求める心です。
この心こそが「宗教」の心です。
生存欲・生殖欲・自由欲のために生きている生活で満足しているような人にはそんな心は起こりません。
「少しでも今の自分よりは向上したい」という反省から。
そこから「宗教」はスタートするわけです。