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佛教は別名「恩」の宗教。と呼ばれてきました。
キリスト教の「愛」の宗教と対比され、その特徴を表したのでしょう。
ここにも前提連関が現れています。あまり耳慣れない言葉ですので再往しますと、
「木を見て森を見ず」などもそうです、
病気にかかった木の中を探してもその病の原因は見つからない「木を見て森を知る」前提連関思考。
でもうっかりするとこれ、因果論にもなりかねません。
(釋尊は因果論に問題提起しました、
だから佛教にあらずの見分け方でもあります。)
今ここに現れている姿にはそうせしめる前提がある、
しかしその前提は固定化されたものではなく、
無数の可能性の中からある一つの「これ」と成った。
縁によって全体の収縮。その過程は固定化されない。
けど人は安心したい、
エネルギーの最小化の法則
(エネルギーの損失を最小化しないと、死を予感させたゆえ、思考規範に組み込まれた)、
何か掴まるものが欲しいという方向へと、自ずと向かう性質あるゆえに、
どうしても不連続さという真実を無かったことにして、
意図的に連続性を実現させている。佛道が「空」に目覚めつつ頽落を繰り返す訳も同じ。
安住したい意欲も悪いわけではないが、
「それしかなし」と固着し、固着していることすら妄失してるのはとってもマズイ。
そのためには、「ところでさ・・・」とか「そもそも・・・」
というような魔法の言葉を使って、前提を遡る、ウラナリを思い出すということが、
生きていて死んでいる存在にならないための必須なのです
(だから、技術を学ぶこと以上に、心ある仲間同士で話を聴いたり対話をしたりする日常はとっても大事)。
さて、「恩」の思想はいわれは、
キリスト教にいう「愛」=佛教の「慈・悲」を引き出すトリガーに注目するのです。
「恩を受けた」という確固たる自覚がある存在に対しては、
必ず感謝し報恩に駆り立てられるし、
大切な存在として尊ぶ(ここでの誤読は「果たして恩のない存在とは存在するのか?」で解消)。
まさに「貴方」と呼ぶその意味に込められた通りの存在と思いたい。
そうすると、内発的に、その人の悲しみをその人以上に感じ、
その人の喜びをその人以上に悦ばずにはおれない。(これが、慈愛・悲愛)「恩」の宗教たる由縁です。
二つの物語について皆さんと思索してみたいと思います。
まず、サン=テグジュペリ『星の王子さま』。ファンタジー、
子どものおとぎ話という印象が多いのだろうと思います。
確かにそうなのですが、その意図するところ、何をなぞらえているのか?、
何を置き換えた物語なのか?、
それを直視できる大人、その意図を踏まえている大人が、
そばにいるのといないのとでは、全く子どもに伝わるものが、
変わってしまいます。
重要な出来事を挙げますと、
①象を飲み込んだ蛇の絵を見て大人は帽子だといい、
真相を明かしても、お腹の中の象を描いた絵にしても、
それはおかしい、帽子だ帽子だという。
けど王子さまは一発で象を飲み込んだ蛇の絵だと面白がります。
それに連動して、「羊を書いて!」が引き金となり、
個性の強い、変な大人たちが次々出てくる、そして王子さまにはみんな同じに見える。
②狐の三ヶ条。
③王子さまはかけがえのないバラのところへ帰るために死を選ぶ。
①は、明らかに社会に適応してしまって、だいぶ歪んでしまった大人、
自意識ばかり過剰になった
(共同幻想に駆り立てられることで自己幻想が増長する、対幻想を妄失した〈エゴ〉状態)大人と、まだ、まともなままの子どもという二項図式を描いている。
大人の愚かさ、社会に適応することと、適応ではなく、
違和感を持ち続けつつ対応していくことの大事さへと誘っている(前々回号で紹介した「第2プラン」)。
この物語を話題にするとき、この変な大人のシーンについて完全黙殺パターンと、自傷舐め同情パターンと、思考停止パターンとあり。いずれにせよ確信を突かれた感に襲われて、取り繕う大人がほとんどです。そこにチャンスがあるのに。思いっきりその滑稽さを笑い飛ばしたほうがいいのに、無かったこと、見なかったことにするか、真面目に受け止めて理詰めで考える、もしくは感傷に浸ってしまう。
作者は法華経を読んだのか?そんな期待も抱きます。
法華経の釋尊は十二章で、大人知見者(子ども感覚でまともに見れない人々)らに、
子どもであり女性であり獣である八歳の竜女の成佛に
「そんなわけはない」と疑わせ、
「お前たちは、大切なことを忘れている、思い出せ」と揺さぶりをかけます。
イエスさまは「子どもはそのままにしておきなさい」マタイ福音書十九
そう諭されました。
②は、まず三つ目「絆を結んだもの同士はその相手に応え続けたいものだ」
(訳文などとはあえて違う表現をしてみています)。
二つ目「手間暇(時間と労力)を施したから、尊いものになり、絆を生む」。
一つ目「親しみを深め絆を結んだものからしか、まともに知ることはできない」
(これは、はじめ狐が王子さまにそう語った通り)。
このように、さかしま読みすると見えてくるものがあります。
王子さまは地球で育った沢山のバラに出逢い、
自分が暮らしたバラの唯一性をその姿かたちにしか見出せず、愕然としました。
のちに狐の教えを受けて、また見に行って
「あれ、君たち僕のバラと全然似てないや…いてもいなくても同じ
…美しい、でも空っぽだね…
僕は君達のためには死ねない…それは君たちにとって僕もそうだろう」と告げます。
エントロピー増大社会における置換可能化の悲劇をピン留めしている。
訳文「心で見ないと」などと、表面的に見ていたら、
まともに知ることはできないという話としても読めてしまいます。
心で見る=意識で考察すると受け取ってしまう。
これではズレてしまいます。
この三ヶ条が深く結びついて、連なっていること。
前提付連関思考の流れの中にあることは読み解けない。
「応じ続ける」ことも「責任」という言葉が用いられています。
誤訳ではありません。
でも、日本人にはどうしても強制力、予期による自発性(内発性ではない)の強要という感触がある。
お国柄の違いですね。
フランス人などからすれば責任は、内発的動機付けを伴う、主体的な行為。
また、「飼い慣らす」とか「なつかせる」というのも、
なんだか作為的印象が日本人には受け取れます。
「懐かしい」はノスタルジックな言葉でもありつつ、
親しみ結びつきが深まるという意味も指しています。
これら誤読の無いようにして、親しみたいです。
宗教・信心にも繋がります。尊いものだから尊ぶというのはウソです。
尊ぶから尊き存在となる、信じるから信ずべき存在となる。
ただし、損得勘定では魔境へ落ちる。
「疑って疑って疑うところ無きゆえ信じれる」は現代人独特の発想で、
正確には「疑うべきところが無くなった」のであり「信じれる」ものになったとは錯覚です。
でも、「信じるに値する存在かも」という地平に立てるのは確か。
そこから先に、思考と行動の様式を先に述べたように反転させて進んでいく。
そのことをなぞらえた三ヶ条です。
③は、ほんとうに、まともに「知る」を得ようとするならそうせねば、そうせずにはおれない。
この命を賭してでも・・・。
どうやらイエスさま、釋尊と同じことを諭されている、そんな気分です。
賢治さんの「ほんどうのさいわい」への小径も
我々は大きな勘違いをしてきたのでは?と思わされます。
もう一つ、映画『プロジェクト・ヘイル・メアリー』をご紹介しようと思ったのですが・・・。
でも、ここまで『星の王子さま』を読み解けば、
ほぼ同じことを思い出させる物語として楽しめる映画でしょう。
ぜひ鑑賞下さい。『アルマゲドン』など、人類を救うヒーローものにそそられる涙とは違った、
味わい深い涙に溺れるお話。
過去の史実を参照し、政治的手法にある陥穽、経路問題への気づき。
すでにイエスさま、釈尊において明らかなことだったのかと。
それにようやく人類の思想は行きつきつつあるのでしょう。
『星の王子さま』を改めて見直したり、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』などに出逢うと、
逆に、そんな展望明るい気分にさせられます。
『星の王子さま』の演劇舞台を観劇し、TOKYO NOVYI ・ ART https://tokyo-novyi.com/
降りてきたこと綴りました。
さて、最後に、
現代社会を生きる上での必須思考とでもいうべきことについて、
例えば、バス事故のこと、または強盗のこと、
犯人探し、誰が悪い?的な議論で行き止まりにはしたくない。
「置換可能な関係」というのが一つの鍵。「あんたでなくても誰でもいい」という道具化の人間関係。
これは資本主義社会を支える重要なワードです。
工業文明化に始まったこと。
昔BOØWYが「ボルトナットの仕組みで、組み込まれる街で」と歌ったのには、印象的でした。
学校教育は完璧なまでに置換可能な人材育成を積み上げてきている。
人材の均一化、画一化です。
なんのドラマか忘れましたが、「軍人が同じ制服を着ているのは・・・・」というセリフも、
あまりにもショックでした。
これらは、国が求めているとか、企業が求めているとか、ということではなく。
社会の風潮、世相がそうなっている。人々が常に求める条件として、
コスパタイパを最優先して決めている。
その、一人ひとりの単なる感触の総和によってのことです。
なおさら、解消するのはほぼ不可能。
労働を与えてもらう、その労働を必ず引き受けないと、次の労働が与えられない。
だから必ず受ける、無理をする。
なぜか、これが駆り立ての連鎖、ヴェーバーやハイデガーが忠告している現象、ゲシュテル。
いつでも使えるようにプールしておく資源のように人材を扱う、
ように仕向けられてしまう、それが資本主義のカラクリ。
もし、何かそこでの自分において不具合を起こせば、
別な人材にすげ替えられて、労働を失ってしまう。
労働者ばかりではなく、資本家もその対象というところが、
さらに悲惨な出来事を誘発する。
だから、無理してでも、自分の能力不足を伏せてでも、
その駆り立てに乗り続けるという結果、生じてくる事件。
これは誰のせいでもない。そして誰もが当事者。
そういう社会に生きている、支配されている、という自覚をまずせねばならない。
そして、置換不可能な絆を結べる他者との出逢い、
吉本風にいう対幻想の関係。狐の三ヶ条的関係作り、
ロッキーのようなエリディアン的生き方のできる相手を見つける。
できれば、そういう仲間を増やしていく。
だからと言って、このようなお粗末な社会が変わることは簡単ではないが、
マクロに期待せず、まずは自分の周りだけでも
そんなかけがえのない他者との関係を一人ひとり結んで、充実させていく。
そこにしか、希望もなく活路もない。
そう囁いているような作品、リアルタイムで重要な示唆を与えてくれる物語だと、
そう思って、またまた感服しています。

