国際文化交流、演劇芸術に同行 

開催日:2026年03月29日

我々宗教者の立場からは、
いわば「法華文化芸術における感化救済」といっても過言ではない、
それはロシアの方々をある体験にいざなったこと、
盛況裡に終えたことをもって申し上げられるかと存じます。
ただ行為をもって主張したのではなく、
ある体験質を生ぜしめた。
この劇団が大切にする演劇理念がそもそもそうなのです。
そんな、ロシア紀行をご紹介申し上げます。

ささやかながらも、民間人においてできる外国交際。
これが、戦禍を被る人々、心痛める人の内なる光の縁起とならんことを。



劇団 TOKYO NOVYI ・ ART 紹介!

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『源氏物語』の舞台公演を、 ”菩薩行の体験へ誘う劇団“と共に取り組みました。

(釈尊信仰者からはそう見える営みを大切にする劇団)



昨年10月後半、

はたと思い立ち(それは今になれば、声なき呼びかけだったのでしょう)、

20年近く親しくさせてもらっている劇団の現状、演出家アニシモフ先生の近況をお訊きしたところ、

12月の公演に向けて『古事記』と『源氏物語』のお稽古が始まるところだと。

願い出て、見学参加をさせて頂いたことが始まりでした。



このタイミングでの、 ロシア渡航はいささか覚悟がいるものでもありました。

しかし(多くここで語ることは控えますが)、

我々にできることの一つに気づかされた体験でもありました。

為したことは自分でわかってはいます。

しかし、総領事をはじめ領事館の皆様との交流から、

それが何だったのかを知ることができました。



この催しは、 演出家アニシモフ先生、モスクワ音楽院のカラティギナ女史のおかげ、

そして、何といっても事実上の渡せ橋そのものとなった、

通訳であり劇団の国際部長の上世さんのプロモート、

日本大使館の協力、 それらの結集によってのこと、改めて甚深の報恩を捧げます。



それにしても、 加持祈祷には与える力あれど受け取り力なくば・・・、

という理念があります。

我々ばかりではなく、そうした現地の皆様の受け取る感性、

身体性の豊かさにどれだけ助けられたことでしょう。

過酷な環境の意味が立ち上がって参ります。



ターク、ターク(ロシア語のさてさて)、



『源氏物語』はこの劇団においてすでに、日本では何度も上演されてきた演目です。

数年前、初上演に向けて内容演出を思索している段階で、

「祈りの言葉(呪文・マントラ)を探している」と問い合わせがあり、

呪陀羅をご提案申し上げたところ、

冒頭と終わり、 そして劇中にてお唱えする呪文として採用されました。

そんなご縁もあり、 私が見学参加するときは、 稽古を始める前に、

一文一句口伝えの様式で読経の稽古を致しました。

「あ〜にいま〜に」「まね〜えままね」と、

私の口唱をまねて続いて皆が唱える、

という、いわゆる古来伝統の読経伝承のありかたです。



ちなみに、お経典を目で追って読むというのは、

視覚要素が優先され、 主観的な読み方が身につく傾向にあります。

ゆえに、「お経は耳で読む」とされてまいりました。

師匠の唱える口唱の中にある魂のすがたをそのまま

からだに吸い込んで血肉にしていく。

これはなにも、僧侶にかぎったことではなく、

どこの界隈でも、日本伝統の技芸においては共通の伝承法です。

その効果あってか、

とても場の調律と俳優の精神的準備に好ましくありがたい。

とのお言葉を頂戴しました。

当たり前のことなのですが・・・、

媒体となる僧侶次第でそうはうまくいかないというのも、

現代社会における私の課題であります。



我々の起こす混乱に釋尊は明確な応答をされていますが、

それは、子どもと大人の差異への目覚めにあります。

(尊ぶことは装いではなく、作用を帯びています)



ひと言にすれば—— 他人のモノ化・道具化——なのですが、

じゃあ、赤子は幼児は母を大人を自分に服従する道具としていないか?、

ということです。

この分別がつかない、この分別を伝えないことは、

母親を大きな闇へ突き落とすようなものでしょう。



子どもには、 予期させ、思わせぶりにする、 他人の意識の予測力を利用する、

という作為はないわけです。



ただ、鳥が猫が、草木が仲間に呼びかけるようにしている。

しかし大人は違う・・・。愚かなものです。



それをこしらえものの法の正統化を後ろ盾にやっている、

人が人を治める手法の駆動力——服従契機、となっています。

そう受け取れば、なんともお粗末な社会構造です。

知っていて、それに無知な人かそうでないかを見分けないと、

取り越し苦労ばかりになること明らかです。



さらに脇道へそれますが、

当山のこのHPの冒頭にも載せてありますように、

社会を生きていかねばならない、

しかし、その社会に適応することは、

同時にたましいを奪われる。



これはもう、我々の祖先が大規模定住を始めたとき、

それを承知で踏み切ったことは明らかです。

でも、それは時が経てば忘れ去られてしまった。



社会とは、 法に従い、法をよく知り、それに基づいた損得勘定を持つ人を、

優良な人とするわけです。

当然、ケが生じケガレに至る。

それを取り戻す役目が、ハレでした。

間省きますが、

そのハレの常駐の場が寺院や教会であり、

宗教の社会的役割として尊ばれていました。

(寺院と神社は明治までは一体でした)



劇場は教会の役目を果たすようになるbyチェーホフ



日本では、 いつの間にかその社会を維持し、

人をそこに適応させてしまう装置にすげ変わってしまいます(特に江戸期)。



なぜ魂を奪われるのでしょう。

法や規則に基づいて裁かれる、何かを強制される。

法による正統性を盾にした暴力的威嚇を向けられるからです。



「こういうことをしていたら、こうなりますよ、こういう処置をこうじますよ」という、

一見、理性的な説得のようにも聞こえますが、

明らかに言語理性によって、予期させ強制誘導する、

腕力を使わない暴力による威嚇です。

(これは私の私見でもなく、法哲学・政治学における重要な定説と心得ます)



これに無自覚な人は優秀な方ほど多い。

宗教者が、ダルマ=法が秩序的なものと早合点してそうなっていることも多い・・・。



恐ろしいことは、それがいかに人の魂を奪うか、

全くの無知において、乱発されているということでしょう。

よかれと思ってなすものですから余計にタチが悪い。



さらに、この弊害は信仰そのものに深く寄生しています。

キリスト教には「神強制」「瀆神行為」とされエセ信心の種として、

強く嗜める教えがあります。

いわば「神との取引」です。ご利益祈願系、スピ系と揶揄される類い。

「これをしたら救われる」「しないから病にかかったのだ」というような、

聞かされた者はさらに具合が悪くなる体験です。



これ、お気づきの通り、

自分が救われたいが故におこなう利他のようなものも含めて、

信仰とは言えない、

単に損得勘定に基づく成果の道具に神仏を使い倒す所業ではありませんか。



佛教的に読み解けば、 立場の下の者に向かってその威嚇を為すのを「慢心」

上の者に向かってその威嚇を為す(神強制を含む)のを「慢過慢心」



時代の節目2044年までに、

このような人定の約束を身の保身とする暴力的威嚇なき社会に、

人類は行き着けるのでしょうか。

はるか2300年前すでにアリストテレスは回答しています。

しかしいまだにその経路問題を抜け出せないでいる。



まずは、日々日常のあり方を改める個々が増えていくほかない。



今回の、私の加持祈祷・読経の声と音にはそんな祈念を掛けました。



「こうしていると、こういう処置をこうじますよ」には、

「想像してみてください、それがあなたにとっていかにまずいことか・・・」

という人の予期力を利用して人を操縦する意図があります。



この思考様式には、自分も陥らぬよう、

またそういう手口に引っ掛からぬようくれぐれもご注意いただきたいと思うばかりです。



子供の育みに、最も害毒なる大人の物言いです。

これに無知な大人によって簡単にその人生は終わります。

(余島のキャンプディレクター:阪田晃一さんに気づかされました)



奇遇にも、

これをしたためている今ちょうど暦の上での癸(みずのと)月が始まったところ。

まさにこの癸はつらつら述べたこの社会問題を思い出せ!、というアイコン。



話を戻します。



https://tvspb.ru/programs/stories/3733510


↑ クリック 今回の国際文化演劇芸術による民間交流がロシアで報道されたものです。

1分ころから始まります。

なぜ、僧侶がこの劇団と共にあるのですか? の質問に、
菩薩の姿勢について話し、 この劇団の演出法には同じものがある。
と私が話しているワンシーンを載せてくれています。

この劇団は、釈尊信仰者、法華経信仰者としては特別な存在です。

宮沢賢治さんの『銀河鉄道の夜』もレパートリー、

『源氏物語』は、紫式部の法華経への応答と読める作品。

藤原俊成(中世を生きた和歌中興の祖)はその教義との一致を見事に解説しています。



当時、歌人においても社会に適応してしまった者多く、

現代の我々のような先述の課題を抱えていた背景もあったのでしょう。

「思い出せ!」とばかり、その講釈を叫んだのです。



それは、我が門下の先師、元政上人へと引き継がれます。

お自我偈にある渇仰恋慕の思想です。

そして、元政上人に教えを請うた文人らが源氏物語の解説本を出しますが、

また同じようなしまつ・・・、全くその背骨は継承していないものでした。



なのになのに、それを底本として執筆した与謝野晶子は、

見事に継承した現代語訳本を完成させます。



今回はそういった、紫式部・藤原俊成・元政上人・与謝野晶子と継承された

日本仏教の普遍的思想を引き取るような演出をアニシモフ先生はして下さった。

先生はロシア正教徒でありロシアにて多く演劇芸術の功績を残してきた方、

初めに「これはイエス様のお話だ」と感じたと打ち明けてくださいました。

私には等しく、釈尊のお話だと・・・、

かつて本読みした時はおぼろげだったことが、

この舞台によって確信をもちました。



ロシアバージョンとあえて今回の舞台構成を演出家は限定されました。

劇中にて六条の宮は、あのようなお方との出逢いは奇跡のような出逢いとして我が生涯に深く刻まれ、それ故に生霊と化して現れます。 至福であればあるほどそれは反転もする。 それを、追っ払うのではなく、 共感感受し身に引き受けて法華経の思想性によって昇華し、 満足を施す加持祈祷を行ったという展開があり、 そこで私は法華修験の木剣加持祈祷を実際に修しました。

また物語終盤、 紫の上は「出家を許されぬゆえ、法華経千部の供養を致そう」と僧侶に願います、 そこで読経を披露しました。



キリスト教では「我らが神は分け隔てをなさらず救われる」と神の威光を示します。

門下が掲げる「いのちに合掌」布教方針を支える経文「一切衆生には悉く仏性を所有している」。 それは日本人たる我々、日蓮宗徒ばかりではなく、草も木も動物も鉱物も、この世界に存在する全てに備わっている。

ただそれを見出せていないだけだ、用いる慈悲を引き出せていないだけだ。

ということなのでしょう。

まして、人類同士、分け隔てなどあろうか・・・と。

もう一つ驚いたことは、

演出家アニシモフ先生が伝え指導する演劇法・演出法=演出家と俳優の仕事(準備)において大切なことは、全く菩薩の思考様式・行動様式なのです。

二乗とは分け隔たる初動スタンス。

般若経には三乗共通の智慧を説いています。

しかし、甚だ深い智慧は菩薩の心境を得ないと受け取れないと。

その菩薩の智慧は法華経に明らかにされている。

その分別明確にしなければ真の利他には至らない。

同じようにして、 舞台は薬にはならない。

薬となれば、観客は止観の境地に入り、治療が生じる、と。

ここの「止観」には注意が必要です。

「自分の心を止めてその自己システムを観察する」ということなのですが、

どうもこれを、気合いだけで、その動機づけ止観の止観以前的前提をすっ飛ばして、

ただ「止観するぞ〜」とやってる方、僧侶にも多いわけです。

釈尊やその系譜にある先師は 「わしゃ知らんぞそんな方法は」と呟いているでしょう。



佛教を読み解き、実践する上での、

基本的理念を教わっていないから歪んだ受け取り方が、

チェリーピックをやってしまいます。



さて、 近代社会とは、残酷な社会です、

はからずもその残酷さゆえに生まれた美しい芸術がありました。

法による暴力的威嚇でしか統制を取れない限界ある社会、

その極限から生まれた智慧の芸術、

今後の新しい時代に一石を投じる文化交流となったでしょう。



尊い機会に遭遇し、なにより行者であり続けた父が悦んでくれています。

「一切衆生、同一の苦」がモヤの向こうに見え始めています。



父が大切にしていた言葉

元政上人の跡を継いだ慧明日燈上人の言葉、

「只須く、一心一意、正念相続すべし」



また一つ、心ある方々に、そして遠い異国びとに、

そうして釈尊の救いの体験に誘う機会を得ました。



帰国後すぐ、 一本のお便りがまいりました。

カラティギナ先生のアシスタントをしていた(まだ、二十歳前後でしょうか?)女性からの頂き物。「いま自分たちの周辺で起きていること、それに対してただ祈るほかないもどかしさ、苦しみの中にある人たちに希望が訪れんことを、祈ってほしいと」心打たれました。

とても日本に深い関心を抱いて下さっていて、日本語の勉強中とか。滞在中、私に対しても熱心に語りかけてく下さいました。

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