先代のこと

当時のままですが、
父であり師匠の最期を綴った文面をここに、

合掌。冬至の候、御礼とご挨拶、ご報告申し上げます。
宝光寺先代でありました、師父本壽院日敬上人は令和3年11月27日遷化されました。改めまして深厚のご恩に今一度感謝申し上げます。

昨年の今頃は自由闊達であった毎日が、腎臓の弱りから足や腹部がむくみ、法体弱まり、すこし不自由になり、幾度か入退院を繰り返しながらも、むくみが取れれば元気ではありました。九月から十月にかけての入院の際に、主治医より透析の話があり、十年若ければ間違いなくお薦めするが、その大変さと効果とを考えても難しい。ご本人やご家族で決めてくださいとのこと。近代医療を自ら退め、もう病院はいいと申し、山内書斎で静かに過ごす日々となりました。夫婦の私たちと特に孫の大祐が加わってくれて、寺族一同そばで見守る毎日、人の死に様、僧侶の死に様を身を持って教示下さいました。現代社会は中々師匠や親のお給仕が出来ない時代、とても有り難く、お徳の一分を頂戴し、最期の薫陶を承りました。

十月末、御会式に炊いたお赤飯があることを知り、大好きでしたからお茶碗にいっぱい食べ、眠りに着きましたところ、水分補給とお手洗いへ行くのみの毎日が続き、一週間ほどして起きて参りまして、お粥を食べ、饅頭を食べ、色んな昔話、自分の思い、信仰理念を語り、また眠りに入りました。一週間ほどして再び起きて参りましたところへ、東京の田島伝師様からおこしが届き、あんなに硬いものを「うまいうまい」とバリバリといくつも食べ、とても満足そうで、お礼のお電話を掛けてお話ができたこと、とても嬉しそうでした。家族をひとりずつ呼んで話をしたり、二日ほどそれなりに元気で、床に横になっていても、そばに居れば子供の頃からの話、信仰の話、案ずるところの話を二時間三時間する。荒行をするために坊さんになったが、副伝師を勤め、身延山大学で学生に信念を語る事が出来たのは宮川先生のおかげ。小僧時代の母親代わりの庵主さんと親しくしていた庵主様の弟子の竹内上人、シュテフェンス法尼のこと。枕元正面に飾ってある絵画は、子供の頃よく釣りに出掛けた山あいの池のほとりによく似た風景で、いつも懐かしく眺めていたのです。牧場で生まれて子供ながらに両親の手伝いをした話、少年でありながら志願して海軍で訓練を受けた話、弟子入りして師匠に厳しく仕込まれ夜泣いていたら庵主様が来て自分の苦労話を語って励ましてくださった話、妻の幸子に苦労かけた話、このお寺へ来てお婆さんに厳しく仕込まれた話、自分が七面様のお給仕をするために先に幸子が入って待っていたという信仰的順序の話などなど、想いに任せて存分に語りました。そして、「これでも、一生懸命やってきた、どうだっただろうか?」と自分に問い、仏天に問い、弟子に問うたことは、最後まで誠実な信仰者である生き様でした。師父は自分に厳しくそれでいて人に押し付けずその人に合わせて待つ人でした。

最後に食べたのは娘から贈られた大好きなイクラと松前漬けの数の子でした。ほんの少しでしたがとても満足そうでした。

二十四日には孫娘が旦那さんと一緒にひ孫娘を連れて来てくれて、どんなに嬉しかったことでしょう。その夕方に大祐に手を引かれてお手洗いへ行こうとしましたが、たどり着けず引き返しました。翌日の朝は何とかして行けましたがそれが自力で歩く最後でした。その夜、七時半頃から潮叡がそばに居りますと、目を覚まして見つけ、手を握り、爛々とした目で見つめ、時折うなずき、時折手を引き寄せて自分の胸にトントンとし、時折眠りながらも、また爛々とした眼差しでうなずき、手を引き寄せ、繰り返すこと三時間を超えました。最後は自分の両の手を握りその中へ私の手を握り込み寝みました。深夜二時頃、水を所望されましたので、境内の湧き水を汲んで参り、ストローで飲もうとしましたがもう吸う力なく、お匙で「ああうまい」「ああうまい」とひと口一口美味しそうに飲みました。翌二十六日の朝、潮叡と大祐がそばに居りますと、目を覚まして二人を代わる代わる見て何度も何度もうなずきます。全く衰えのない透明で輝いた眼差しでした。それが何かを認識する最後でした。

昏睡となり一日半、全てを吐き出して置いていくように、みるみる体は小さくなり、二十七日十四時四十五分、静かに入る息を終えました。孫娘の卒業公演の舞台が始まる時でした。

身内で厳かに送る旨、叶うなら田島伝師様にご一読賜りたいこと、堀僧正に一言頂戴したいこと。それをこの社会状況ながら、何とか叶えつつ、また、多くのご縁者に最期の面を見てお別れしてもらうことも大事と考え、暦に従い十二月二日に葬儀と告別を定め、周りの強い勧めもあって自ら遺弟装束にて導き、約束の寿量品百巻と報恩読誦行をもってお送り致しました。小春日和というのでしょうか、寒風と土砂降りの夜から一変、暖かな日で御座いました。

嘆徳にも述べましたが、最期の最後まで日蓮法華祈祷加持の行者、摩訶止観の人でした。十乗観法最期の煩悩「離法愛」「自法愛染」に対して自らを厳しく律し、「知者に我が義破られずば用いじとなり」との祖訓を帯し、宗教と社会の安穏の一致、先の大戦の戦争責任と高度成長期の経済戦争の責任を、宗教者が謙虚になって諸宗教対話による人類最高の叡智を見出し成し遂げることを最後まで望んでおりました。これを師よりの遺命として受け取り、潮叡はじめ家族一同、来る新しい社会に役割を果たす宗教活動に尽くして参ります。生前中の父への御恩に感謝し、その御恩に今後は家族が代わってお応え申すべく、社会の役割を果たして参ります。まずは弔問、お供え、お声がけの御礼申し上げ、師父の最期をお伝え申し上げます。

初月忌の砌 大垣 三塚 宝光寺十四代潮興日敬 法子 十五代 潮叡 拝

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