ここのお寺は、そもそも

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まだ、5.60年前までそれ以前は、ここのお寺の一体、特に北側の大木の周りはうっそうとしていて、なんかこわい感じがして、実際に草木を刈ったり切ったりすると、なんか変なことがおきる。それを先代がご祈祷したりお経をあげて縮小して玉垣を囲ってその中だけに収めました。昭和の高度成長期、どんどん人の美観を頼りに人の手で人工化し整備出来ていることを良識とする時代でした。
今となってはどうでしょう?
登校拒否(いきたくない)から不登校(行きたいけどいけない)へ、そしてひきこもり。いろんな恐怖症。あげく「筑波病」が明らかになった。法社会・記述言語・損得勘定に縛られる中で奪われる生命力。

いわば、本来、お寺が贈与(提供)していた聖なる力・生命力・ワクワク力が湧いてくるではなく、江戸期に官僚化した(今でいうお役所仕事請負のとき味わったままの癖が抜けない)ままできてしまっている。

これが、なんとかならないかなあ?、というところに気が済まない私です。宮﨑駿さんがトトロにこめた神さまご先祖さますがた、昨年の最新作の世界観。どこか共感します。

だからといって、現状に抗おうというのではないのですが(ある意味すでに不可抗力の域)、此の期に及んでもまだ、そういう場所がどんどん失われていくというのは、なんとも悲しいなあと、自分で自分の心を潰しているようで、もどかしく思います。

なんといいますか、
人が社会を保つため、時代に乗り遅れないためなど、「見たいものだけを見て、見たくないものを見ない」ようにする(釈尊はじめのさとり)ことで、自分が保たれるという自我の働きのなか、外の世界を人工化した(人の美観で見ればスマートなのだけど)、そうしてつけた手垢のヨゴレ。手をかけず、そのままにして風化していった(人の美観で見ればキタナイ・キモチワルイ)風景との違いがわからなくなっている?、のではと一度は考えてみたい。
一旦、美観がそうなってしまうとなかなか戻せないのだとも思うのですが、なんとか、とりもどす小径を設けたい。でないと本当に心が潰れていってしまいますから。

いずれにせよ、人間性が二つに分かれて大きく二極化します。
一方は、いかなる状況になっていこうとも、いや、だからこそなおさら、自分で自分に誇りを持てる生き方を成し遂げたい。という人。
もう一方は、どうせ〇〇〇なら、すきほっかいにして、生きてやる。という人。
いずれにせよ、今なしていることに対する吟味、ずっとそうしてきたとはいえ、このままでいいのか?、に立ち止まる時です。
〈だいたいちがっているというのが良識〉

いずれにせよ、イキイキ活き抜くをごいっしょに。

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