日本語の「ありがとう」は仏教の「有り難し」(全ての事象は因と縁によって形成された無常の姿であるという意味)が変化したもので、経典の中に出てくる「盲(もう)亀(き)浮木(ふぼく)」の譬え話が元になっているとも云われます。人としてこの世に生まれること。その上、仏の教えに出会うこと。さらに、その中でも法華経に出会うことは稀な事であり、まさに「有難し」ことであると説かれています。今日はありがとうの元になったといわれる「盲亀浮木」のお話を紹介します。
「盲(もう)亀(き)浮木(ふぼく)」は、妙法蓮華経(法華経)の第27章『妙(みょう)荘厳(しょうごん)王本事品(のうほんじほん))』の中に出てくるお話しです。「仏難得値。如優曇波羅華。又如一眼之亀。値浮木孔。而我等宿福深厚。生値仏法」。仏に値(あ)いたてまつること得難し。優(う)曇波(どんば)羅(ら)華(げ)の如く。又、一眼の亀の浮木の孔(あな)に値(あ)えるが如し。而(しか)るに我ら、宿(しゅく)福(ふく)深厚(じんこう)にして仏法に生まれ値(あ)えり。 つまり、仏(お釈迦様の説いた法華経)に出会う事は、3千年に一度咲くとい優(う)曇波(どんば)羅(ら)華(げ)という花を見る事や、大海の底深くに住んでいる盲目の亀が、百年に一度だけ水面 に浮かび出て、波間に浮かぶ浮木に開いている穴に偶然に頭が入るようなもので、非常に確立の少ない奇跡的な事であるのです。これは、邪教に執着する妙荘厳王という王様が、夫人と2人の子供からお釈迦様の教え(正しい教え)を勧められ、改心するという面白いストーリーの一場面で出てくる話です。盲亀浮木の喩え話は、人間としてこの世に命を頂き、お釈迦様の教え、法華経にあうことは奇跡的な幸運でありますが、何気なく過ごしている日々の生活も、また同じように有難い様々なご縁によって成り立っているという事を私たちに教えています。永遠に存在するものがない無常の世界にいる私達にとって、同じ時代に生き、出会うことは、それだけで深いご縁があることですし、その中で好意をかけてもらうことは、本当に「有難し」ことです。人の思いやりや優しさにふれた時は、心から「有難う」と伝えたいものです。(康)