当山では、11月11日の小松原のご法難の聖日に、法要を執り行います。
日蓮聖人は千葉県小湊のお生まれですが、立教開宗後は幕府がある鎌倉で弘教をさえておられました。
鎌倉の地で辻説法をされているときに、故郷にいる母の病の報を聞き、小湊に向かわれたのですが、大聖人を恨んでいた地頭の東条景信が、小松原という地で一行を待ち伏せ、襲撃しました。
その時、日蓮聖人を護ろうとして弟子の鏡忍房は討ち死にし、領主工藤吉隆公も討ち死されました。九死に一生を得た日蓮聖人も、額に傷を負われました。
晩年日蓮聖人は身延山に住まわれますが、
「五尺の雪ふりて本よりかよわぬ山道ふさがり、といくる人もなし。衣もうすく、かん(寒)ふせぎがたし。食たえて命すでに終りなんとす。」(上野殿御返事)
とありますように、身延山の冬は大変厳しく、大聖人の額の傷も病まれました。そのお姿を見たお弟子たちが自分の衣の袖をちぎり、大聖人がその袖を頭巾代わりにしたという故事にのっとり、大聖人の尊像には秋のお会式から春の彼岸まで綿帽子をお掛けするようになったのです。
また、千葉県小湊に日蓮寺というお寺(小松原の法難後、額に傷した大聖人が一夜を過ごされた厳谷の寺)があり、こちらにも綿帽子の由来の話があります。
日蓮寺では、綿は三層になっており、額から順に、赤・黄・白の染めた綿を使っておられ、これは日蓮聖人の額の傷の血の色を表すそうです。
法要では、日蓮聖人への報恩感謝と、殉死された鏡忍坊、工藤吉隆公のご供養を行い、あらためて聖人の御苦難を思い、お題目の信心を見つめ直す日といたします。