春季彼岸会と涅槃会を営みました
春のお彼岸、その二日目(3/18)、徳蔵寺では春季彼岸会(しゅんきひがんえ)を営みました。ここ数年、春のお彼岸には当山に伝わる「釈尊涅槃図(しゃくそんねはんず)」を掛けてご覧いただいています。お釈迦様が涅槃入られた(お亡くなりになること)のは旧暦の2月15日とされていますが、現在の暦(太陽暦)では春のお彼岸に近いこともあり、涅槃図を掲げ、その解説をすることにしているのです。
お釈迦様は80歳、日蓮聖人は61歳でお亡くなりになりました。私自身も還暦を過ぎ、またここ一月半ほどの間に、恩師と敬慕した方が相次いでお亡くなりになったこともあって、「死」そして「死に際」について考えることが多くありました。
旅立った恩師は、どのような境地で目を閉じたのだろうか? 死の間際、どのようなことを思われたのだろうか? 心残りはあったろうか、満足して死を迎えたろうか、恐れはあったのか、、、
此岸と彼岸
涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)という、安らかで、穏やかな、悟りの境涯。この境地に達して、お釈迦様も日蓮聖人も臨終をお迎えになったのでありましょうが、はたして我が身はどうなのか。仏教を学びはじめた頃に比べれば、ずいぶんと死への恐怖はやわらぎましたが、まだまだ涅槃寂静にはほど遠いのです。
迷いの世界・悩み苦しむ世界を 此岸(しがん)、悟りの世界・浄土を 彼岸と言い、安楽なる彼岸には亡き人々がいる。その亡き人々を思って供養し、また自分自身も彼岸(浄土)を目指して修行する期間が彼岸の供養なのだと、一般には思われています。しかし法華経においては「即身成仏」が明かされます。此岸・彼岸は紙の表裏のようなもの、つまり生と死は常に同時にあることも意味します。
死は生を育む
「土は生き物の死骸である」という学者の言葉を聞いたことがあります。植物の枯れ葉や死骸、動物の遺体、排泄物が微生物によって分解・堆積し、岩石が風化した砂(鉱物)と混ざり合って作られる「有機と無機の複合体」、それが「土」です。生き物(動植物)が死んで、それが微生物による分解プロセス「腐植」を経て、土を養分豊かにします。その土が新たに植物を育み、動物にも栄養を与えるのです。
私たち人間を含め生物は、大地(土)がなければ存在できません。
「死」によって「生」は育まれます。死によって善き生が育まれた時、死もまた善き死となるのです。悪業(悪しき行い)が善業(善き行い)となり、ここに「煩悩即菩提」そして「即身成仏」が実現するというのが、法華経の教えです。
此岸を浄土となす
となれば私たちが生きるこの此岸を、浄土としなければならない。今、生きる我が身を仏となさなさければならないということです。仏様(お釈迦様)の教え、法華経の教え、日蓮聖人の教えを学び、修行する(「南無妙法蓮華経」を唱える)ことが、我が身を仏となし、この此岸を浄土となすのです。


