皆さん もうすぐ10月を迎えますね。少しずつ日暮れの時間が早くなり、秋の気配を感じます。
朝晩はだいぶ過ごしやすく感じられるようになりました。皆様いかがお過ごしでしょうか。
私たちは物事を判断する上で無意識のうちに偏った見方をしていることが多々ございます。男性だから、女性だから、こういう職業の人は、こういう学歴の人は等、無意識のうちに色眼鏡で物事を判断してしまうこと、ございませんでしょうか。本日は偏った見方について示された『華厳経』の一節を紹介します。
この世のすべてのものは、みな縁によって現れたものであるから、もともとちがいはない。ちがいを見るのは、人びとの偏見である。
大空に東西の区別がないのに、人びとは東西の区別をつけ、東だ西だと執着する。
数はもともと、一から無限の数まで、それぞれぞれ完全な数であって、量には多い少ないの区別はないのであるけれども、人びとは欲の心からはからって、多少の区別をつける。
もともと生ずることもなければ滅することもないのに、生死の区別を見、また、人間の行為それ自体には善もなければ悪もないのに、善悪の対立を見るのが、人びとの偏見である。
仏はこの偏見を離れて、世の中は空に浮かぶ雲のような、また幻のようなもので、捨てるも取るもみな、むなしいことであると見、心のはからいを離れている。
このように示されています。
仏様の教えをほぼそのまま書き留めていると言われる『法句経』は、理想的な出家者である賢者のことを、「両極に対する欲望をコントロールできる人」と述べています。両極というのは、あるかないか、善いか悪いか、〇か✕かなど、相対立する真逆の考え方を示します。
私たち人間は、中途半端な状況を嫌い、不明瞭な感情に白黒つけたがる傾向があります。その方が問題点や解決策がはっきりし、物事の整理がつきやすいからです。
しかし、現実にある問題の多くは、そう簡単に白黒決断できるものではありません。それでも強引に区別をして考えてしまい、間違った結論を導いたり、誤った行動に走ったりすることが少なくありません。
この『華厳経』の言葉にあるように、大空には東西の区別などないのに、その空の下にいる人々は、東ではこうだ、西ではこうだと言い争ったりするわけです。
仏教では、こうした偏ったものの見方を離れることの大切さが説かれています。
色眼鏡を外せば、そのまま穏やかな世界を見る事が出来ます。しかし、なかなかすぐに外す事は難しいものです。まずは、色眼鏡をかけている事に気付けるよう、日々の生活に注意を向けてみましょう。
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