紅葉も見ごろを迎え、はなやかな錦の秋となりました。
いかがお過ごしでしょうか。
皆さんは、物事にとらわれてしまい、それに振り回されてしまうといった経験はございませんでしょうか。そんな時、何事にもとらわれなければ楽なのに、と考えた事はございませんか。
本日は、何事にもとらわれない「中道」について『相応部経典』の一説を紹介いたします。
一本の材木が、大きな河を流れているとする。その材木が、右左の岸に近づかず、中流にも沈まず、丘にも上らず、人にも取られず、渦にも巻き込まれず、内から腐ることもなければ、その材木はついに海に流れ入るであろう。この材木のたとえのように、内にも外にもとらわれず、有にも無にもとらわれず、正にも邪にもとらわれず、迷いを離れ、さとりにこだわらず、中流に身をまかせるのが、道を修めるものの中道の見方、中道の生活である。道を修める生活にとって大事なことは、両極端にとらわれず、常に中道を歩むことである。
『相応部経典』にはこのように示されています。
一本の材木が、川から海まで何事もなく無事に流れていく-それが理想的なあり方です。その材木のように、毎日を無事平穏に過ごしていけるでしょうか。
でも、わたしたちはいつも何かにひっかかったり、とらわれたりしてしまいがちです。たとえば日々の生活のなかで、次のようなことに思い当たることはありませんか。
ともすると、「私が」とか「私の」という意識が強くなっていたりしませんか?
他人の言うことやすることが、気になって仕方なかったりしませんか?
気が付くと、いつも楽をする方向にばかり流れていたりしませんか?
していないことをしていると嘘をついたりしていませんか?
日々、頭に来たり、不満に思ったりすることがありませんか?
つい喜びや怒りにとらわれて、我を忘れてしまったりしませんか?
いかがでしょう。なにものにもとらわれないというのは、当たり前のようでいて、実は非常に難しいことなのかもしれません。
その、なにものにもとらわれない、迷いのない心の状態が「中道」なのです。
両極端のどちらにも近寄らない「中道」とは、どっちつかずの消極的な態度ではけっして成し遂げることのできない生き方なのです。
難しいながらも、すこしでも「中道」を実践できるよう日々意識して過ごすことができたなら、わたしたちはきっと、より自由に、自在に、この人生を生ききることができるのではないでしょうか。
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