自分の事は棚に上げて人を責めてしまったことはありませんか。今回は、「他人の過ちを赦す」をテーマとしたお話をさせていただきます。
10月を迎え、徐々に肌寒くなり、金木犀の香りが漂う頃となりました。
いかがお過ごしでしょうか。
皆さんは自分のことを棚に上げて他人の過ちを責める、そんな人を見たり、自身がそうなってしまった経験はございませんでしょうか。怒りにとらわれて相手を赦さなかった経験はございませんでしょうか。
本日は、そんな他人の過ちについて示された『法句経』の一説を紹介いたします。
他人の過ちは見やすく、おのれの過ちは見難い。
『法句経』にはこのように示されています。
人間は、自分だけの力で大きくなることはできません。多くの人たちとつきあって、そのなかでいろいろなことを学び、成長するものです。
他人の良いところを身に付け、悪いところは真似しないようにしていけば、人との付き合いも楽しくなります。
ところが、いったん相手が嫌いになったりすると、急にその人の欠点が眼につきやすくなり、間違った言動をしていると分かると、さらに許せなくなったりします。
そうなると、そばに行ってやさしく間違いを直してあげようなどとはせずに、思わず相手から距離をとるようになってしまったりするのではないでしょうか。
これが反対に自分の事となると、人は犯した過ちをなんとか正当化しようとして、言いつくろい、時には嘘までついて、状況をおかしくしてしまったりします。素直に「ごめんなさい」と謝ることができないばかりに、どうにもならないことになってしまうのです。
孔子も『論語』のなかで、「過ちを犯したならば、ためらうことなく改めなければならない」と言っています。
わたしたちは残念ながら、他人のことはたやすく批判するのに、自分の過ちをなかなか認めることができません。いつもいろいろな言い訳ばかりしています。でも、やはり素直に謝れるような人間になりたいものです。
仏教では、仏や僧に、犯した過ちを告白して赦しを願う「懺悔(さんげ)」というものがあります。中には、常に懴悔を心がけている方もいます。
人の過ちを指摘する前に、まずは一呼吸おいて、自分自身のことを振り返り、考えてみましょう。
落ち着いて考え、相手を赦してあげることができれば、より良い人間関係の構築や、自身の成長、さらにはより人にやさしい社会へとつながっていくはずです。
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