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【よそはよそ、うちはうち〜お母さんの金言の巻〜】
「お母さん、このゲーム買って、もうクラスで持ってないの僕だけなんだ」
「あら、そう、でもよそはよそ、うちはうちよ」
「お父さん、犬を飼おうよ。みんな飼ってるよ。」
「へ〜、みんなって誰かな?よそはよそ、うちはうちだよ。」
「ねぇ、買って買って買って」
「よそはよそ、うちはうちよ」
よく聞く親子の会話です。
子どもが親に何かねだる時に「〇〇君も持っている、持っていないのは私だけだ」と比較することで、買ってもらおうとする作戦を使いますよね。私自身も幼少の頃、どうしても欲しいゲームがあり、使った方法の1つでした。
結果はお察しの通り、「よそはよそ、うちはうち」という残念な結果でした。
しかし、この「よそはよそ、うちはうち」という考え方は「仏教」を学ぶと深い教えの1つであるという事に気がつきました。
【悟りとは「うちはうち」】
仏教に「悟」という言葉があります。
お釈迦様は「悟った方だから偉い、悟った人だから尊い」と言いますが、そもそも「悟」ってなんでしょうか?
「悟」という漢字は「忄(りっしんべん)」に「吾」と書きます。
「忄(りっしんべん)」は「心」を表し、「吾」は漢文体で「我・自分」を指します。
つまり「悟」とは「自分の心」という意味です。
「自分の心」を知る、「自分の事」がわかる様になるというのが「悟り」なのかもしれません。
意外と自分の事って分からないですよね。
自分は何の為に生まれて来てたのか?自分に向いている仕事は?何が好きで?何が嫌いで?歩んで来た過去は何だったのか?今何をすべきなのか?未来はどうなるのか?10年後、1年後、1秒先の自分もはっきりと見えていないのが私達人間です。
その様な中で厳しい修行を経て、過去・現在・未来の「自分」がはっきりと見えるようになったのがお釈迦様です。自分を見つめ「心のうち」と徹底的に向き合うことで、自分を知るという悟りの境地に辿り着きました
。
仏教ではこの「自分を見つめる」ということが重要視されています。
今の世の中、良くも悪くも他人と比較をしてしまいます。
自分のことは棚に上げ、他人の行いに口を出す。否定、誹謗中傷などもよく目立ちますよね。
自分の「うち」を見ずに、他人である「よそ」ばかりを気にしています。
「よそ」である他人との比較は時に必要かもしれませんが、あくまでも参考程度に留めて、自分の「うち」を見つめなければ、お釈迦様の様な人間的な成長はあり得ません。
【心に火を灯す】
お釈迦様は非常に「心」というものを大切にされていました。
お釈迦様の生まれた2500年前のインドでは「火」を使った修行が流行していました。
「火」を見つめることにより、心の安定を保ち、清める修行方法だったそうです。
現代でも焚き火を見つめるキャンプが流行っていたり、「火」を見ると少し心が落ち着いたりしますよね。
しかし、お釈迦様はこの修行方法を一刀両断しています。
「確かに火を見ることによって一時的に心の安定は保たれたかの様に思える。しかし、それは外側の表面的なものであり、外側でいくら火を焚いたからといって本当の心の安定にはならない。私は自分の内側、心の中に火を焚く、心を静かに統一して、心の安定を保つ。心に火を灯して、自分を整えた人間は光輝いて見えるものなのである。」というお話が残っているのです。
心が疲れた時、苦しい時に誰かに何かに支えられて一時的に心の安定を得ることは大切なことです。しかし、本当に大切な事は自分の心と向き合い、「うち」である内面を磨くことで、長く安定した安らかな悟りの心を得られるのではないでしょうか。
「よそはよそ、うちはうち」
子どもをなだめる、この言葉には、『他人である「よそ」を気にすることなく、自分自身の「うち」の見つめる修行をしなさい』という深いメッセージが込めていたのかもしれません。
お父さん、お母さんは本当によく仏教を勉強されていたんですね。
でも、テストの成績だけは他の子と比較して、「よそはよそ、うちはうち」ではないんですよね。
※出典:ブッタ伝 中村 元 著 原始仏教経典「サンユッタ・ニカーヤ」より