学生時代を振り返ると目に見えるものが全てであり、目に見えない曖昧なものは信じたくない。信仰というものは、その最たるもの感じ、目を背けていた時期があった。
初めての修行の場で教わったのは「目に見えるものより 目に見えないものこそ大切」
信仰とはそういったものとは認識していたが、当時の自分のとっては真逆の教えに戸惑った。お題目をお唱えして年齢を重ねるにつれて「心や思いやり ・愛や友情など」は確かに存在する。日常の中には、目に見えるものよりも目に見えないものの方が、遥かに多いと感じるようになった。と同時に目の前に映るものを「心の目」でも見るようにもなった。心の目で見ると、食卓に並んでいる食材も、多くの命・飼育・栽培から調理されるまでの過程が目に浮かぶ。オリンピックでの活躍を目にすると、それまでの努力や苦難・挫折。また周りの方々のサポートなどがあってのことだと想像する。また活躍した選手だけに留まらず、期待に応えられず早期敗退した選手にも、自然とスポットライトを当てれるようにもなった。あれから30年。50歳を迎えて、信仰と共に心が豊かになったように感じる。「大切なことは目に見えない。肝心なことこそ目に目えないもの」これからも「心の目」を養うお題目の信仰を深めて参ります。
【圓乗寺 服部巧顕】